[未校訂]天明三の年癸卯春二月の頃より信濃國淺間山燒出し、三月中頃迄は一日ふた日又は四五日間あつてやけつゝ卯月十日頃より日毎に車ひくごとく、どろ/\となり渡り折々は雷のごとく鳴て黒煙り空へ吹あげいと/\すさましきありさまなり、五月に至りても夜る盡なり音のやまして、灰の吹事、度々なり。折し〓、こがい時なれば、ふりか〓りし桑の葉の灰を、ひと/\いかならんときつかはしく、おもへとも、あまたなりければ、洗ふ事にも及びがたく、せんすべなく、ふり落したるのみにて喰せける故にや、まゆ作りもいとあしく、六月土用になりて日ましにつよくして淺間山北裏へはやけ砂折々ふりて田畑ともに諸作、用立兼し體なれば御支配御代官所へ御見分願ひ奉りしとや、其頃山の湯にてゆあみしひと/\珍しき事迚侍るさに立より見るに、目を驚かす事共な〓。〓〓〓日ましに暖くなりて置き煙〓の〓〓〓もへあがる火の影見て、夜るは猶吹上る火の玉五六尺あまりも、ありやとおもふに〓方に飛ちり花火の玉をあけぬるにことならず其音天地ひゞき、震動しいと/\おそろしき有さま、た〓事〓〓〓〓とて草津山湯の温泉に居たる人々も皆〓〓歸りける其頃當國へは煙深くして見えざりしが、信州上田善光寺たいらにて見れば、吹上る火の影、おどろ/\しきさま也。七月初より猶もやはあがり大地も動き家もいまや、くずるゝ斗りに、障子は暇なく鳴渡り又はうち歸り黒煙〓は常に北浦へ吹かへし碓氷郡邊は日毎に曇り、日のごとくにて灰の降る事、たび/\なり。むかしよりともすれば、五七日十日あまり〓ける事はあれど、幾月もやけつゞきし事なければみな/\いとあやしみ思ふ折から七月五日に至りて中山道、松井、田邊、安中あたり迄灰に小砂交りてふりける、六日には夕立雲の吹ちるがごとく黒煙り天をとび、未刻はかりより雨はふらずして雷ごとく鳴渡り雷光目を驚すばかりなり、夜に入て又砂のふること貮三寸もありなんとみゆ、夜は明ぬれども物のあやのもわかされば、家毎にともし火をかゝげ去り難き事ありて出にし人も道わかりかねぬれば、みな提灯を持行、むま〓路の旅人もみんな輕井澤より高崎邊までの宿〓に〓〓を〓もめ止〓〓〓。晝の程は砂もふりやみぬれど申〓〓くばかりより又ふり出し淺間山やけ音のみならず雷なり渡り天地は震動して稲光りは百千の劒をなげるごとし、あ〓〓〓〓しや女わらわへのなき〓〓〓〓〓〓ばりや、あ〓いかなる時節到來にやありけるやと人々十方に暮れて〓居たりける。一ノ宮邊迄は六日にもふらずして人々ひとへに神徳也と社人たんせいをぬきんで、きねん奉りし七日にも朝の間は西南は晴れけれども北は黒煙にして、けはしき空なり。又北にて雷の音きこえければ其日は麻もほさず申の刻に至り灰に交り砂少しづゝふりけるを珍しきもの〓、人のもとへもて行見せけるも有り、いとはなきわらはべなどはよろこび、ひろひよ〓、もてあそびけるもあり夫より次第に雷の音近くなり淺間やけ音はなほもいやまし、天地もくずるゝ斗りなりければ人々驚き野山より立歸りける日暮方には西はいとよく〓ぬれば夕日かげやけ煙りに移りそのさま、うつし繪も及ざる蚕情也。北方のさた間及ひけるゆへ人々佛神にぬかつき、きねん奉りけれともやがて黒けむり押かけ燒音のみならず、震動雷電して砂降きたりぬれば、村々騷ぎ立、鐵〓をうち、かね、太鼓をならし時を作りて追ける稲亦一ノ宮にては社中へあつまり、つり鐘を突立天災といはんや時節到來といふべきか、神力にも及びかたくやありけん其夜には空も晴れわたりければ人毎に田畑を見廻りけるに其薫り酢のごとく、いはふのにほいありて草津の温泉あたり近き香に似たり、一ノ宮近在は砂の大きさ鐵〓玉位よりまゆ玉中には茶碗の大きさ成もあり又ふりし時はぞろ/\として足を踏込み、草履、草鞋殊の外ふみきらしけるゆへ其ころは人々竹にて下駄を拵へはきける〓如此也。諸作のあれたる事何によらず一品も用立物なしいと〓く生立し麻も伐殘りし葉を打落しきず付し故立枯になり、桑も枝葉打けるゆへ誠に野山に青き物なく燒砂五六寸も見へけれは人々おどろき八日には御領主御役所へ言上し御代官所御旗本御領分は江戸表へ訴へ奉りける。早速九日には小幡御領分は御見分御手分にて御出役あつて砂のふり方御見分なされ、むら長を召て仰ありしは男女共に諸作へ手をいれ種斗りも失はさるこそ専一也。糸絹をやめ出精し可然と仰にしたがひ、みな/\畑へ出、成大精出しけれとも大小豆はみな打たふれ、粟稗は砂にてうづみ用立ものなし、芋はのこらず葉を打落し、くき斗りにて作は一面にうづみ平に成、中々精力にも及びがたく見えければ中にはとても角ては此國の住居は叶ふまし後に國やくにて御〓普請なし被下候や外國へ立のきけるやも斗り難き内、身を勞して開發もむやく抔いへるも有り又芋種斗も殘し傳へんといもの、すなを右左りへかきわけ手をいれしや其頃日毎にけふり深く曇りてすゞしく度々雨もふりければ、はやく手をいれける人は芋は三四分五分位にも取ける也。然共北裏砂降厚き所は種さへもなき村々多し、田方は水かけ置きければ根より生出かくては半石もあらんと悦ひ侍れと、二百十日過て穗にいてぬれば皆青立とやらんにて種を失ふ者多し。扨又信州追分沓掛輕井澤の邊にては四日五日の頃よりはいきたる心地はなかりしかども流石に家を〓〓退くものゝなかりしに七日の夜にいたりては火の玉のやうに見へてふりし故三宿共に、田井、岩村田、志賀内山邊へ逃しりぞく中にも輕井澤は大きなる燒火ふりけれは人々どうてんして逃出し家々にて食盛女あまたありて拾人廿人宛引わかれざるやうにといひつけ出しけれども原へ出ければわれ先にと飛行し故皆散々となり逃行ける、やけ明りにて晝のごとくなれは方角はわかりぬれど原道にて行方を失ひ、なきさけぶも有り、しやくなどおこりたふれしもあり、あわれなりし事共や殊に燒石火のごとくふりぬれば皆人なべ釜食〓つ桶ふとん營など手にあたるを幸ひ、うらかふり、やうやく上州はつどやの里迄逃去り宿を〓、止宿して居たり。沓掛追分は砂もふめざれば一日二日過ぬれば立歸りぬかる許こそ砂にてたふれし家もあまたあり又火もけさすして逃し〓にゝしへ付しや火事となりて家数三拾軒余燒失せる又ふりし火石よりもへ付しや。しかれども砂にうづもれ居りし故〓燒もすくなくして仕台や又碓氷峠はすなのふりし事三四尺あまりもあれば〓も〓〓東馬のあし〓いふもさらなり、歩人の往來さへしばらくとゞまり侍りぬ。坂本宿石砂貮尺七八寸三尺、男女共に横川御關所迄、大勢逃來る、男は御通し被成、〓は〓〓戻る横川在土鹽村貮尺餘松井田在〓梨子村新井村増田村貮尺七八寸より貮尺、安中宿北在被〓村秋間村郷原可邊壹尺〓六寸碓氷川南は石砂少し残く七八九寸位妙義邊下は間に田村南は諸戸菅原高田谷一ノ宮邊まで七八九寸位夫より南西牧、下仁田、馬山、南蛇井邊野上〓ケ岩染國峯小幡邊は又少々少くして、北は板ケ澤峠より險は甚しく薄く灰に砂ふる三ノ倉より寳田高濱邊三寸餘榛名山へは富らず、板鼻邊より高崎邊四五寸夫より東は下野國武藏國常陸、町子邊まで灰砂降、江戸へも灰砂少しふり又白き毛ふりしとや其頃何人の狂歌にや
淺間山〓せ其やうにやかしやんす
いはふ/\が峯にあまりて。
かくてうすひ峠通路なく輕井澤坂本両箱より早飛脚にて道中御奉行桑原伊豫守様へ御前申上る松井田宿には七日の夜小笠原石見守様御泊り板鼻宿には牧野遠江守様御泊り八日にはうすい御通行成兼御逗留なされ道中御奉行所へうかゝひ西牧通行あそばさせられたきよし西牧通り御通行の儀先例なき事なれば迚、ゆるし給はず盆前迄御逗留あり、往來不通行なれば御用の差支にも〓ぬれば早速御見分御役人方御出は格別の難儀なれば歩人の通ひ路斗もあきぬべしと仰渡され賃銀あまた下し給ひ道御普請ありて〓後にやうやく歩通行の道あきければ両宿御逗留の御大名方御前さへ御かちにて碓氷を御越〓被成、御荷物は松井田より本宿へ御継西牧通り岩村田追分ヽ御出で被成、牧野公は信州小諸御城主にて、御領分の人馬を召よび御手入にて御荷物御引取被成し其頃一ノ宮杯所々御家中御通行なは又道中〓御見分御普請やく甲川藤三郎様灰野文五郎様御出役にて輕井澤迄御見分西牧通り松井田へ御出、下仁田に〓止宿ありて道筋のこらず繪圖に仰付、一ノ宮に御泊り馬山、南蛇井より小幡邊北は高尾、高田谷迄召寄給ひ其村の御領主の御名にて石砂ふり方何寸ほど諸作損毛のやうす書付差上べきよし仰渡され、、むら長きて猶もくわしく御尋〓成、仰ありしは此地の見分我等ハ被仰付にはあらねど道すじ、もよりの村かたゆへ尋るなり。御上にて御尋の時申上べき心得の爲也。しかれば領主方へ見分ありしと訴へ及ばず事なり。被仰し其頃佐渡へ行〓入丸〓三拾餘七日夜、玉むら泊りにて三國通りへかゝりけるに八日に利根川の泥埋にて五料の渡し通路なく、そひ御役人方玉村に御逗留ありて渡場手安く通行なり難きゆへ西数通り被成べきよし御うかゞいありしに奮例になき事故五料不通行ならば碓氷をこすべし〓ひ日数かゝる共くるしからずと仰付あり七月廿六日頃迄は五料の出來兼ける故うすひを越給ふべきよし、高崎へ丸籠を御出し被成、又高崎に二三日逗留有、御公儀よりも宿々御傳馬助〓村々へ無帯人馬継立べきよし被仰渡しと也。此節わけて被仰付しは大變故、助合村々より御傳馬勤が〓きよし御奉行所へ〓ひし故御老中松平周防守様より御觸あれと宿々にても助郷へけんゐにてふれ出しけるにはあらず此の節の事ゆへ願入とあり又御老中より御觸ありし事なればいはひも成がたく百人のふれありしは五拾人宛も出しける八月二日うすひにかしり、難所は丸籠へ縄をつけ大勢に引あけ押上げ、添御役人方も人足をたのむ/\と仰せられ、やうやく峠を越しとや、罪ある人を佐渡へ送る事此六七年前よりの事や此節御公儀にても御物入猶又玉村高崎其外道筋此折からなれば諸かゝり多く難儀也、又うすひ不通行のよし、御奉行所へ願ひ上ければ、脇住來御見分御役人御両所本庄宿より藤岡、吉井、一ノ宮、下仁田、本宿迄御見分ありて彼町々によせ助郷ありや、御大名御旅宿御やすみ勤べきやと御尋あり、何れにても御覽の通手せまなる村々、御うけ成がたき由、申上げれば其通り書面て差上べしと被仰付、本宿より矢川通り追分へ出る道筋谷合の細道にて御通行人道筋にはたやすくなるまじきと思召ありてや其後御沙汰もなく碓氷は道普請始り、八月中御代官遠藤岡右衞門様吾妻荒地御見分被成、仲仙道近在御旅宿へ石砂のふりかた御尋ね、夫より碓氷を御越、輕井澤御見分の上みかげ御陣屋にて一両日御逗留又矢川通本宿へ出、下仁田に御旅宿ありて近在殘らす様子御尋、又一ノ宮に御宿りありて村々召御尋、開發壹反に付何程の人足にて砂かたづきしと仰あり、男女入交り壹反に四五拾人もかゝりけるよし、申あげれば、砂しき何ほどふさぎしやと仰あり、壹反に付貮畝より三畝分迄と申上、其通り村々より、印形御取なされ、先年寳永四年十一年二十二三日富士大燒にて駿河口口へ砂ふりし時關東へ砂出しの役金被御付、砂降場へ砂の〓殘に〓〓て御〓〓有し〓〓ありにし事〓かば此度も御見分〓上御〓ひもある人がさへ〓〓出しも〓〓〓たりしが、御領所へ〓代富様も数々〓すくひあれど、御私領〓は何の〓〓〓もなく、〓を綴る儘に蕎麥の〓時分〓〓成〓ぬれ〓人は開發に取掛りける、前代例なき事なればいかなる手だてにて埒明くべきに思ひ/\の〓〓をこしらへ、〓ん限り精出し〓る第一〓〓は鋤廉なる〓は此〓になきもの成。近き〓信州〓〓と〓へるもの〓〓山〓川原新田開發し、畑過し〓〓林〓〓ける。これらの人〓ひける遊具也。土をかき〓。もつことゆらんへかきいれけるに利方よき〓〓なりと人々〓〓をたのみ拵ける、いかなる、家〓〓〓〓〓す、四五〓〓ゝ〓し壹丁にて五匁七匁五分位までのあたへにて、其外手くわの光がはいる/\にて其横は〓職人ひまにて開發にのみ出けるが、鍛治〓いとまなく晝夜に細工あり、又錢出し〓ける人は竹にて拵用かける、夫にても、手鍬よりは埒明ける、其外砂入を籠にて作り、車にのせて引〓ありまた竹へのせて引ける人もあり、其外好々の〓傾ありて綾より、暴よしといへど、龍相手にて、もつこへ入れかつぎし方第一よかりし、又ひとりかつぎもよし、車にて引けるも草臥少なくしてよろし、砂を高く重ねける時あしかりし、とにかく〓事〓しき〓〓へ〓は万事を〓一とす、〓在共に奇病身なるもの留守番して〓わらべ諸〓人迄開發に出ぬれば
しのぶれどたこに出〓〓〓〓〓〓〓
砂やにのふとひとのとふまで
其年は麻もよく生立すなふ〓前伐は〓はほしもよかりしが五日六日頃より伐にしは砂降雨ふり日毎に曇りほしあしく、砂にうたれしは、き〓〓き、やう如く下麻となる、たばこのこらず砂にうたれ、大小豆、粟、ひえ皆たねを〓〓なひ、芋は丁なの肉より葉出、四五分にもとれし也。田作は皆無にて、わらもやう/\壹大程ありて雨立がたし、澤山砂の降しむらは、ねもくさりし故、ほきいです、信州へは砂もふら〓して、盆中より雨天にて八九月〓ふり晴たる日なかりしゆへ、みのりあしく、漸く二三分のとり也。當國にては砂の降らざるむら/\連もおなしくみのらずして、菜大根も寒さはやきゆへ、そだち兼し也。其上蕎麥に虫つき種程〓もし、砂のふりし村々は、そばはむしつきぬれど菜蕪はよろし、砂のふりし時道に前栽などほり、すなをこかし、箱のほりたるごとくかきわけ、菜種を蒔〓ちらしける人有り。其〓青きものなく難義なりしが、其人斗汁の實〓類のこなどにも手支へざりし也。つねどきなれば、菜大根位は隣にさへあれば我物も同じ事なれ共其師はもろう事に成かね、一〓も〓き砂すくなくふりし村々へ行、おんばことか〓〓取さたり食ふ、汁杯へもいれし也。此節七日市御屋浦より江戸表へ早飛脚の御無沙汰ありて御〓両人刻〓にて八日の朝四つ時屋敷を立出、野も山も雪のふりしごとく、いち面に、すなにうずみぬれば、さらに道もわかりかねぬれど道ひなれたる道にもあ〓ば、はや貮三里も行しが、茂木金助といへる同役かたへにかこまりて小雨をなすうち壹人〓壹町も先へ出し也。是は今井小原〓といへる人を。此人後に一ノ宮上ノ町京や傳左衞門也。程なく跡より追つきたる〓しと道のほど十町も行過あ〓ふり歸り見れば金助來るべくもあらねば、しばらくたち〓すらひ、これをまつに、金助〓何したりけん、堀の中へこけ込、水はなけれど、石砂こけ來り、手かくり足かゝ〓もなければ中々に出ぬべき〓りなく其身は砂にうづめ〓〓、せんすべなく〓を呼に遣れ共拾町あまりも隔りし事な〓ば、かつてきこへず後には聲もかれ果てぬ、先なるは是を知らざれば、はや〓るなんと一時あまりも待といへとも頭におもかげも見へず殊に御文荷も金助が持居たることなれば先入も行かね、立もどり見るに何國へか行けん更に見えざれば、こは御用な難儀におもいわび欠落やしたりけんと思ふものから聲をかぎりによびければ、はるかあとにて返事なす聲、遥にきこえ其邊へ行見れば金助さらに見えず、よく/\こゝかしこ見廻りに、かたへなる、くはき處にて砂にうづめられ、頭ばかり出して居たり。いかなればかくはなり給ふと、よびければ、先はひきあげ〓よといふ其處へ行、手を取引あげんとせしが、足に力をいれしにや上なる砂こけ落、同し堀の中へともに落入ぬ。二人共に何となすべきと十方に暮て居たりしが一人の肩に取付帯にあしを踏かけ、やう/\うへにあがり帯を解、此はしつかたをもたせ、又落さる様に道の中程にあつて是を引に、此おび黄八丈のやうかん色に成しが中よりふつと切れて又落こみ、せんかたなく、二人の帯をもて二筋になして、是を便りにやうやく引あ〓〓内、彼是壹時半も時を移しければ夜に入てやうやく本庄の宿に至りけるが、いよ/\淺間泥押のやう十間つゝ人々うろたへさわぐはかりにて、二人とも夜食さへたべねば何がな求めばやとおもふに中々もとむる事〓し、やうやく餅すこしもとめつゝ是を食べ、いそぎ行儘に、熊谷土手にかゝり、はらしすきぬれば、やうやく鴻の巣の宿にいたりぬ。天よりしだひに砂もすくなければ道もはかゆき、九日の暮方に江戸御城半蔵御門小前田の御屋敷に着しと也。近年は諸國共に陽氣〓〓く、諸穀共にいと下道にてありしが過し〓をし上つかた、美濃、尾張、伊勢、中國〓作にもてこもわけ四國は〓作屋貮分〓作も同じ不作なれば、すべて困窮に及、木の實、草の根を掘てたべつゝ〓の命をつなぎける〓し。〓〓り米も高値になりし、北の國々、出羽、奥州、南部津輕邊は天氣あしく寒さはやくきたりにしゆへ、田作みのらず、右の國々田方のみにて小作なければ、餓死の人々多かりしと也。〓平は美濃尾張五〓内中國九州荏々はいふもさらなり繁花の〓にても人々難儀しける。江戸にても米壹升にて馬目十疋より高くは〓出十まじと度々御〓奉行所〓り御觸あるといへども天晴なる相場にや日増しに高〓と成、諸人いとなんざなり。又砂ふりし村々御領三方御年貢木約と思召給かけるにや御倹約〓〓出、御家中方御知行御扶持迄御ひ〓被仰付しと也。在方百嫁家にても〓合せ、祝儀不幸其外〓舞事〓申待杯で休み、もの日節句等迄儉約いたし度よし村役人へ申出、何れの村にて〓開發等皆出來て後勤合を先年のごとく〓べし先此折からなれば、萬の事儉約をなし身命をとり續けるこそ導一也といゝ合せける當秋も皆無にしあれば來る春はきゝん餓死の人もはかりがたければとて、朝夕の食も心付貮度に壹度はかゆをたべける盆も麥喰とはい〓ども半食に〓せずして二度の食也。御年貢も壹番成、六月上納〓た〓のみにて九月納めされ、は猶以外〓賃利足勘定も無沙汰無盡〓村々延となり、村方杯は夫よりして七ケ年のびければ、八ケ年目に半立となりぬ、それ迄貮拾年あまり豊作にて世の中諸穀下道にして暮し方よろしかりければ、おのづから人も〓りつゝ家作り衣服に至迄、美〓いをこのみ侍りぬ。むかしは五七年の内には凶年もありて諸國ともに穀もの高値たりしがしばらく打續豊作にて米壹石貮斗より四、五斗位の年もあり、麥も貮石餘にて小幡御城米三拾壹貮俵位なる年もありて作方、損なるやうにおもひ、おのづから、不情なり小作致しては徳もなき杯言つゝ皆買暮しとなりぬ。其頃は麻もよし、〓も年々あたりて陽氣がおよろし、まゆ絹の直段も能、ことさら細絹ほど利方よきゆへ、絹数多くいできぬれれば世の中ゆたかにして年々奉行人もすくなくして、給金もまさり、なみ男三両貮三分、麻〓ける者は四両餘とり、女子水しにても貮兩餘も取ける、拾貮三歳の女子迄も壹兩壹貮分の給金にて男子は十四五にもなりぬれば貮兩もとらんといふ前かたは二月二日三日頃よりして町在かたにても奉行人居所を間たて、市の如く來り、其人體を見、心ざまをもたづね召抱ける故、〓成者を撰らみかゝへしに近頃は主人の方にて〓廻り漸、頭出し召抱ける由へ給金はのぞみ次第也。中には不身持成る人をば知れる方にとは抱ずして居をくれけれど微々には高給を取りて、たのまれける〓、珍らしき事也。しかあればこそ、いよ/\不奉公にて主人の難義なり、〓に六貫六七百の錢相場にて三四兩の給金を取て〓へ、若きものは年々〓ひたら〓人多い、近頃は〓着せ〓代にて取り、松坂〓〓など〓〓、紙入どう〓ん杯も〓とやうなるを〓、過ぎた〓〓をたしぬ、打續豊作ゆへ村毎に〓〓あり〓例の獅子花火杯をやめて、操踊り等いたし、町方は江戸大阪のあたらしき越〓をま様、在方にても我におと〓〓と年々華麗なることのみこのむ。祝義、うれいの〓〓にもことなる物入をなし、みな難義なりとはおもへども世風に感じたる事なれば、〓〓もありぬ。しかりと析から淺間焼にて、〓〓〓〓地上城、諸穀高値になりぬれば人々夢の覚めたる心地とて、萬の事に心付、儉約を第一となしければ諸藝者はいふに及ばず、大工聲やの類職人皆々なんざなり、ひやうをとり渡世しける人も賃錢貮百文位〓〓も取ぬれど後々は扶持斗にてもたの〓者よれ/\也。開發も皆家内の人のみにて精出〓ける、第一たべものすくなき故也。其数申刻のかたりけるは淺間燒にて、そらの色赤くして、いとすさまじきありさまなりければ人々おどろき家内そうどうし、家財を取納め、いかなる珍しやいできぬらんと心を勞しいたりしと也、大和〓郡山にても何事ならん見定め來たれと早打にて、近江國迄來り、淺間山燒のよし見聞歸られしと也。尾州名古屋にても信州小田井迄見屆け來りしとなり、此領川々にて魚悉く死しながれけ〓ど、毒たらんと喰しける人なし。
其頃宇田村神守寺弟子に充實といへる偕あり、後に小坂村延命寺に住職し〓る。此僧七月七日の夜、土鹽村乾窓寺といへる寺に用事ありて行、一宿しける其夜砂降り八日朝になれど夜のごとくにしあれば、火を燒し侍らんと、〓〓し本堂の〓にるふ家あり、此處ハあんどう、とりに行ぬれば、析しも此〓根へ雷落ちかゝり打潰しぬれば双方の穴や根より石砂こけ落、いと深く埋みけるに佛神の加護にてやありけん、大きな〓棟木横たはり、其下、此僧たふれふし居たれば、けがもなくして人を呼、聲の限りをさけべども中々きこえべくにもあらねばせんかたなし、雷すこし鳴止みて後、きやく僧居さりし〓、尋けれども見へざれば、こゝかしこ見廻りけるに、ろうか打潰しぬ、大かた此處にしや居たりけん迚、ほり出し見ればかの僧棟木の下に伏し居たりしが腹斗り白き所ありてからだは皆眞黒なり下なる板敷、粉のごとくに成しとかや、其〓〓溜のかた〓〓〓〓を〓てしるし侍りぬ。
又此寺の〓き處に家の〓〓亭主しんしぼりとやら落て頭を打〓を〓死す〓なり。〓〓の〓は〓〓〓と板屋根は砂こけ落ざる〓へ。おも〓〓〓〓潰れな〓家多し〓寺の客僧は〓〓木々爲〓命を〓〓〓なる事主は同じ木の爲に命を失ふさま〓〓〓世の中成り、高瀬などにては、砂降〓し二三日は天正寺といへる小寺へ人々あつまり筒ありと〓して〓此度〓〓とてに死べきとて、念佛寺〓〓へ居たりしと也、北筋増田土〓邊にては野に〓山にも青き〓〓なく馬持し入思ひけるは、馬積み置、〓し殺さんも本便也とて萌すじ一ノ宮邊へ引き來り三兩四兩の馬〓萢壹升位に〓人に遺し五兩七兩の馬も貮三兩の金子に〓け〓、其兩は五歳七歳位の小兒〓〓ほどとも〓はれしなり。
又淺間山北〓吾妻郡にて〓鳴音のおそろしきのみにて砂もふらずして八月の朝、辰の刻ばかりより空晴わたりぬれば、人々よろこび男女ともに田〓の業に取かゝり草苅又は畑などへ出ぬるもあり、女は綿はたにかゝりし折から己の刻ばかりと思ひし頃、淺間がたけゝり泥押出し北うらへ流出、吾つま川へ押出し川〓の村々貮州邊迄ときの間に大變とはなりぬ鎌かん原村、白戸澤村、小興村、小宿村、芦小田村、袋〓色より吾妻川へ押出し、かの川信村境、仁札峠下よりなか〓出る川也。火石流水川へ押込、大木大石にてせきとめければ、〓双方〓開き川筋村に人馬悉く〓びれ死、すべて吾妻川は山開き〓出し川にして双方岸〓くて大貮〓丈その〓もなりし〓多かりき、しかるも川ばた〓ら/\泥押、家裁田〓押埋み村によりて川へ四五丁も隔りし村も泥いりしもあり、大笹邊にては百貮三間も有し火石押出しその外三四拾間もありし石は限なし、其頃は火〓べ出けるとなり、川原畑道迄も拾間位の石は多く押來り川の中にて、火もえながら流ければ熱湯の如く〓て、五七日の内は泥にへかり前代未聞のありさまなり、坪井竹右衞門迚、あか〓一の富家あり、四五十石も領しける程の住居に川より四五町も高き所に家有ける。泥にてうづみける也。家内の人は〓は〓く逃しゆへ男女共にあやまちなし、然れ共財寳金銀はみな泥の内へ埋し也。牧の御番所さねまさ福島五料の御關所を押流し、小野子澁川中村邊泥押入、三反八町岸迄も川筋はみな荒地となり利根川より小山川へ泥入、處により川を埋み、田畑を押流し、流となりしも多し、川々大木大石へ泥押〓けふさぎし故上の方へ流れ、其水わき/\へ聞き田畑を悉く押ける處多し、山へ行畑へ出し人斗〓からうじてのがれ、〓り、又泥にて少しうまりし家も大石流かゝ〓火事となり焼失しける吾妻川、沼田河、落合利根川となり、坂東一の大川也此水へ火石ながれ〓、惣〓湯となり川中より煙立、火石より火燃へ出ける有さま、みるもなか/\おそろしや也、其中に人馬流れ入、男女歎さけぶ聲やむときなし、誠にしうねつ地〓毘ならん、泥押の村数百拾七ケ村〓此日いかなる〓日にや有けん僧俗、〓馬の〓命をうとな〓〓かぞふる〓いとまなし、上州武州にとは〓〓拾万石餘も〓かり泥〓たとあれ地となりし事、時節到來とや、いふべき、此大變有様、十ゑの世に天傳ふとも〓なりとは思ふまじき程の事なり、その〓さ、川筋の取〓〓ききて、水中にて火の〓、〓る杯處〓ならぬと〓つ〓見に行〓人は目をおどろかす斗りなり、吾妻郡、群馬郡、利根郡にて人馬の押ながされし事、くわしくきゝて、一ノ宮、下、町峯岸民書付随しを此所にしるしける、押流しける村々。
蒲原村白戸澤村小興村小宿村芦小田村袋倉村大前村中村村赤羽村西久保村半出木村今宮村羽尾村松木村坪井村長野原村海〓村林村川原田村上湯原村下湯原村三嶋屋横谷村松尾村岩下村矢倉村江原村原町原田村川戸村今井村岩井村槇栗村小泉村荒牧村奥田村五所田村箱嶋村柏原村祖母嶋村川島村南牧村中ノ條村伊勢町青山村市城村ヲノコ村上邑北牧村
右牧の御〓所間牧の橋〓の村方其小村々小名有れど是は〓るし侍らず。泥押村々家数人馬流死たる高之覺
一三嶋村百拾七軒人拾六人
馬八疋其外山へ逃る也
一川戸村拾六軒人馬死数いまだしれず
一五町田村七軒人馬
一青山村拾七軒人馬同断
一伊勢町六軒人馬のこらず
一原町拾七軒
一矢倉村拾六軒村中人馬不殘
一〓下村三拾軒
一横屋村五拾軒村中不殘
一川原畑村三拾軒村中人馬不殘
一湯原村七軒人馬のこらず
一〓村拾七軒人馬不殘
一長野原百貮拾軒村中同じく
一坪井村貮拾軒邑中不殘
右拾五ケ村、家数四百七拾軒、人馬の儀、いまだ
〓〓か〓〓三嶋村綾人御〓に〓出る
一〓〓村羽〓村小宿村中居村西久保村
赤羽根村金井村
右八ケ村不殘流失、人数千八百餘人
一村上邑百拾軒
一小野子村貮拾軒
一川嶋村百貮軒人数合百六拾人
一祖母嶋村貮拾軒
一南牧村三拾軒
一北牧村百九拾軒人百五拾人
右六ケ村祖母嶋名主岩丘衞門〓〓に〓出る御〓分御改有之候處相〓無之候、
一澁川村壹軒中村三軒殘り
三友川岸八〓川岸との宮邊家の軒端を泥押上る川筋大通如此也。村〓合〓〓ケ村、家数壹万九十軒早速御公議より御見分あり、流出し、火石中にも大きなるを間数〓させ給ふに貮百間餘有之由御記相成候、花田峠など〓深く砂ふりぬれば草木もなかりしが道の左右の生出ける草を其處の馬子に尋ければ見は馬の糞にありし、くさたね也といふ。其頃は火石のわれし所へわらなど出しぬれば火燃ハ付けるよ也。廿日ほど過ても火石へは手などあてがたし、川水を渇の如くなりて原町にて寺の門前に杉松の大木あ〓、〓〓餘を高き木也。水〓けし後見るに此木の〓〓〓泥村てありしと也。山へ逃し人々家も流れざりし者も又もや泥押來る事もあらんかとしばらく山に居て家へ歸らず、其後盗賊のはかり事にや又々泥押來る也逃給へと大聲に喝りければ人々先にこりたる儘、緘なりやと思ひ、足を空にして山へ逃行ける、その〓にて家藏へいり財寳を盗取りしと也。
其の砌、處々富家の人は思〓/\に木金を施行いたとける也。大戸村安左衞門は近在迄壹軒壹分つゝくばると也、川向へ矢文を〓向に居宿りし〓代者右衞門へ告げ〓原より上の山本まで壹軒壹分づゝ遺す、川原湯〓右衞門是は米を出しける。一〓に澁川より大戸〓ながれ殘りし一難義なりしを扶持しけるとなり、よりて六公儀より御褒美被下置しとなり。
小與、小宿、芦小田、袋倉氏四ケ村にて流殘し人九拾三人あり、大笹村に小屋をしつらい處の名主、長左衞門〓又彦五郎、是も〓戸におとらぬ富家也、馬を三疋拾持し也、〓原村黒岩九左衞門右三人にて扶持しける、其後かの九拾三人男女としに應じめあわせ流殘りし畑を作らせけるとなり、是を大笹一夜の婚〓といへる也。右の三人のもの從御公儀、きとくなるはからい也と御ほめ〓成、銀拾〓つ、ゝ御褒美被下〓字〓免なり〓野〓、人馬大方在、是は〓場なき故成、うしろは爲山にして登る事がたし、前田泥押來り下へ逃々としければ小川ありて泥押入わたる事かたし羽尾村是を同じく下もを大石大木にてせ〓留〓村〓上の方〓流し故木殘押埋み、田中といふ里にては流押來りしを大風土を吹上げると心得、家々にて〓をさし居たりしゆへ殘りなく押埋められしとなり、淺間〓〓鳴音、京大〓〓迄も聞へけると也、川原湯は何よりも餘ほどへだゝり〓岸にてのぞき見〓けど深さ〓なみしが六木にて川をせき留め泥〓あげしとなり。其後爰後〓ら、かげろうのもゆるごとく地ゝりけ〓〓ける也。此處六里の原といふ、淺間山〓麓也、領朝公處久四年三月信濃三原に狩し給ふは泥地なりといふ三原〓庄河原村長野原鎌原これを三原といふ。今は川原村より淺間のふもと迄を吾妻と云ず三原と呼、碓氷峠なども諸方は木立茂り、ものすごき處ありしに砂ふり後大木枯果、草は砂にう〓みしとなり、鎌原村〓〓寺迚、南蛇井村最與寺末にして檀家千七百〓余も有し禪寺也。其日隣村檀〓〓つて〓〓が僧奴〓く共々殘り無、引〓出ける壹人の〓のこり居たりしが、何かは知らず、ことなる音の聞えければいとあやしみ、高きに登り見ばやと山か〓へ上りのぞき見るに何事としも別り侍らざりしかば又高き木にのぼりぬ、あやうき哉、やがて泥水押來りかの僧の登りたる木の、枝近きまで泥水押あげ、火石のほのぼにて、にへかへる水手足に飛付ぬれば其處灸据へたなあとのごとく、むらさき色に〓りてしばらく有りしとなり。後に寺の單立歸り見るに諸堂のこらず押流しぬれば此僧もながれ家下の人となりし事よといとかなしみ思ひづゝ爰彼と見廻りぬればはる/\〓木高き木の枝に取付居たるものあり、これなん鳥にてはあらじ猿よりも大きなる姿なればいとあやしみ行てみえとすれば泥深くして足の踏所なしよりて永々此木に登り居たる事三日を過てやう/\かの木の元に行見れば、其僧也。いの〓のきわに此木にとり付居てしんきを勞せし事思ひやられてあはれ也。此等千七百軒の檀家、千軒餘も流しとなりかの僧其後南蛇井の本山に來り語りしを聞て人のはなしけるをしるし侍りぬ。川〓村々にて大木に大勢の人、馬の留りたるごとく登り居たるを其儘押出しければ川岸に居たる人を見てたすけたまへ/\と賛々に泣さけぶといへ共、助命の〓便もなく手にあせを握り居たるのみな〓、又家作り大夫なりしは家もくづ〓ずして其儘押來り人々〓階に居て窓より顔〓出し、よべどさ〓べどせんかたなく、川ばたに〓り居〓〓ば白井といへる村に至り寺の下なる良角へあなりながれきたる家みな/\くづれしと惣其頃手川村がへるに家〓ける人あり、三ノ〓迄ありて、隣家の人たりとも、とり〓ぎにて、やすく對面する事なし、常に酒宴遊〓にのみ心をよせける〓也。川筋泥押にて大勢の人流れ來りぬるとき夫より夫婦のもの見物に出けるがふたり共に日芝にて、酒肴をもたせ出しはたけ〓が花見などの出立也。〓に十兩の見る所これをゆびさゝざる人なし、〓おごりを天のにくみ〓ふにや十年を過ざるうち家藏までも〓柿、〓のは〓へ家をしつらい〓酒を賣て世を〓りける〓也後には處にも住居なりがたく〓〓しけると也。馬〓泥の中に居て足ぬけざるを承きさほめうらへ草など〓付差出しぬれば三日ほどは〓をくひけるよし後に〓足の皮たゞれ死にけり。
上湯原にて家内四人なひしが亭主は〓へ出しあとにて泥押來りけるに三人の者土藏へ籠りけるに〓〓土藏の下へ水つきし故二階へ上りけるに亭主立〓〓見るに家内は居らず〓呼ければ土藏の〓より顔を出し是に/\といふ、藏は外より地形ひくき所なりしが惣水勢にも前へ押出し高きまし下へおし寄せ土藏はかべわれし故上より手をとりたすけ出〓ければ、〓もなく泥水大きに押來〓前なる崖へおし〓しながれける、此人當に稲荷を信〓〓し故土藏われ、扶かりしと、其〓もつぱら沙汰ありしと也其後〓過てある川ばたへ毎夜光り物見へければ里人あやしみ思ひ、もしや金にてもうづもれいたなかと其場を〓見れば川島明神〓御綸旨也川嶋明神は當國拾〓社の内に神應明〓のごとし。
又〓る家にて〓い主はあきないに出立〓りみれば泥押來り家に入る事叶はずして前なる小高き所に登り〓ひ見れば〓〓は二階の窓よりのそきたがひに顔見合居たりしかども行てたすくべきよふもなくとやはんかくやと思ひわづろふ内又々大水押來り目の前にてつ〓子を水中のみくずとなす事あはれなりし事共也、其後川筋にて男女のなき聲、夜〓にきこえはる故村々寺院にて大施餓鬼有りいまに登り〓も〓〓日にあたりぬれば施餓鬼ありて澁川〓にても良〓妻、濃光童〓寺の塔婆をさきといへる處へ〓〓〓するとなり。
吾妻郡に壹人の老婆ありて常に犬を愛しける泥押の〓から人々川ばたへ出居たりしに犬來りて、いしやうのつまをくわへ引ける〓追やりければ又きたりしき〓にひきしりハあとをした〓ゆきみればはる/\下にかの老婆川ばたへなかれ出居たり故に水をはかせ、わら火にあてあた〓め、いろ/\〓療をくわへければいきふき出し快氣しけるとなり。
布城邑にて土藏の棟木へ金百両入遣、泥押の砌押流し下にてあかな故右の場處へ乘りあけし者へ尋けるに無之よし途中にて失ける哉又隱しける事にや。奥田村にて四拾斗りなる女、泥にて押流されけるが三里ほど下にあまり苦しむ故人々立寄り見れば口より大きなる石をはき出しける此石なか/\口などへ入へきやうなき石なり、其所の里人、是を見て其もとは此石故授かりしならん大切にし給へと云しとなり又拾里二十里下にて長芋にて扶かりし人もありしと也、ある川ばたに流れ來りし屍有り、金をくびにかけ有りしを見つけぬる人ありて、これこそよき得ものなれと〓神の家にあたへたもふならめとひとりごちて取りかゝり〓〓の浮木を得、うどん花のひらくを見たる心地とてよろこび、酒肴を調へ隣家の人々をむかへて饗應し、はや夜も更ぬれば伏所にいりていねたり既に丑の刻とも思ふ頃、三色朦朧として風こずゑを鳴らし不覺に物まごくしてみぢろぎもせずふし居たり彼死人の靈魂枕のもとに來りいへらくなんぢわが所〓りたる金を〓もてきたる事いとにくきわさなり命をきわに人の家藏にしのびて財寶を盜とりも業よりもにくし、すみやかにその金かへすべしといへる有さま大膽なりし、彼男もおぼえず髪もみの毛もそばだちて、いと/\おそろしく思ひ、夜の明行を待あわひ、やがて持行其金屍の首にかけ置立歸かける又ある人その由をきゝて川ばたに行て死人に向ひていへらく足下落命の死をなしたもふ事水中の苦しみ思ひやられてあわれなり。又いま首にかけ給ふ金を子孫に譲りまいらせたく思ひ給ふべうぞあらのと察し侍るといへとも何國いかなる處にや送るべきたよりなし、ねがはくは其金我等に惠み給へしからば子と成り親と思ひ子が先祖の廟と同じ處にうづぬ印をたて尊靈成佛得脱の爲に僧を供養、ながらく香花を手向奉らんもし此事うけひき給はずは先夜の如く來りて告給ふべし迚其金持來りぬるに其夜も又明夜もきたらざれば其も〓ねんきへ侍りしにやと明る日、かのなきがらを廟に移し、ぼだい所を頼み經を踊して供養をなし追善を營みけるとなり、砂降、諸木枝葉枯、砂にて打落、八月頃新芽吹出し梨子桃その外諸木へ春同前に花咲、桑なども夏同前に芽つき、所により蠶種も出し場も有之佃其外石砂重ね片付置し所へ桐の木生しける又松杉も生じければ五寸七寸のび枯けるなり、花曲か峠明神の鳥居石砂降し後か〓木の〓をかけ〓細〓〓なる、長野原といふ里へ半里〓〓り〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓、夫婦仲〓〓からずして子供二人ありながら親里へ歸り居たりしが、〓〓〓〓〓〓は〓〓たり、砂ふりける前六〓に〓〓。いよ/\離縁と定るべきよし、さあれ〓〓多に〓につき、男子は夫につく習ひなればかきとりけるとあり、此よめ半年も親もとへ歸り居たりし故、兩親は孫の事なればかの男子をばいたわり、〓〓などして常に〓しけるに〓小兒、人にあいき〓〓有りて、いとやさしかりし生まれ付なれば、兩親はかぬ〓〓になると孫を不候に思ひ、母の手もとを引わけ〓離しけるを悲しみ、したしき人を頼み娘に教訓をくわへ、やうやく得心させ再縁となり七月は〓〓なり迎、大〓晦日長野原〓親子三人立歸りける、程なく七月八日の泥押にて家内のこらず押流され娘も孫も死骸さへ見えず、泉下の人となりぬれば兩親は〓も〓き深く、さい〓んなくば親子三人けがもせず命はながらへ居べきもの男子は夫に付ならひ是をちばなす不便さにむすめをやうやく得心させ死に〓つたは此母なり迚、毎日その事くり返し思ひ出しては袖しぼり廿日あまりもなき暮し終に此世をさりし也わづか九日の日数のはやきばかりにて四人の命を失ふも〓の世の〓〓とやめ〓れ成し事ともなり、又隣村に夫をきらひ家出しける女ありて親もとへ歸り居たりしが此夫一番も縁なき〓〓とはや二年あまり過ぬれど、〓んをきらず仲〓をたのみ、縁切金少々出とても去状もらい度とし願ひけれど、おつと承引なく月日を〓りける内〓の泥押し、夫も家も押潰され〓欠いらずに一人〓になりしもあり、借金ありて〓〓しける人もかしたる人もながされ、さいそくする人なきもあり、いろ/\のそんとくあり。
七月九日砂降にて當盆前は未だ掛諸職人村や水車等かけ先取あつめ不勘定にて難儀致すべきよしあんじ煩ひそろ/\書出しを引かけ取に出けるに其年は蠶もあたり相應に全取有之年なれば盆前は見世かけ思ひのほか人々勘定致し例年の通りには取あけける。是を思へば金銀〓に持居て云わは詫言をし橫にでる心さもの人はすくなきもの也。天より盆〓々なり御年貢は六七合と定り小作金も六七分、無〓〓建となりて其〓は利足勘定も出來兼けるよし又は店かけ諸職人の作料迄も不勘定のかた多く見えしなり。是も皆次第/\穀物高適なれば人々用心して麥の壹駄宛も買置し也、又番になりいよ/\さし〓にして難儀の人々多かりければ辰の盆前は猶々かけ先あしく、商人諸職人ともに案じたる卯としの盆前〓りも甚難儀也、夫明三卯十二月道中御奉行桑原伊豫守様より被仰渡候うつし
差上申一札の事
先達て淺間山燒に付中山道宿々の内砂降住末差支へ其外燒失並潰家等有之、助郷村か〓に馬飼料差支へ御手當等所々より願出候に付困窮の段無相違思召今般格別の御沙汰を以、板橋宿より鴻巣迄七ケ宿は當卯十二月より來る戌十二月迄中七ケ年の内人馬賃錢貳割増被仰付候間右の割増の内壹割宛宿助郷へ請取〓熊谷宿より輕井澤宿迄拾壹ケ宿は別て困窮に付右年数の内人馬賃錢三割増被如付候間壹割五分の〓宿方并助郷村々双方へ請取可申尤増錢御高札は當月十四日より一統御掛渡被遊候間翌十五日より増錢請取無差支人馬継立可申段被仰事畏候若相背候はゞ御科可被仰候仍て御證文差上申處如件
中山道
板橋宿より輕井澤迄
天明三卯十二月宿々助郷村々
道中御奉行所差上申一札の事
先達て淺間燒に付中山道宿々の内砂降候に付輕井澤坂本宿は別て多降積、燒失并潰家等多相殘候分も及大破、松井田、安中、板鼻三ケ宿は潰家等も無御座候へ共右五ケ村助郷村々共に馬飼料差支へ困窮の趣無相違思召夫々左の通り御手當拜借被仰付候
天明三卯十二月差上申一札の事
先達て當宿并助郷村々の儀信州浅間燒に付石砂降埋候に付困窮申立御手當の儀奉願上候今般格別の御勘辨を以、板橋宿より輕井澤宿迄七ケ年の内人馬賃錢別増〓被仰付候、上は前書の趣、不被及御沙汰旨被仰渡、〓候、若相背候はゞ御科可被仰付候依て御證文指上申所如件
天明三卯十二月
中仙道
宿々年寄
助郷村々名主
組頭
道中
御奉行所
一家数合百八十二軒燒失并潰家破損共輕井澤宿此金千貮拾貮兩但し來る辰より午迄三ケ年延、未より辰迄拾ケ年賦返納。
此譯
燒失五拾貮軒
此金四百六拾八兩但し壱軒に付金九兩宛
潰家八十貮軒
此金四百拾兩壹軒に付五兩宛
破損家四拾八軒
此金百四拾兩〓壹軒に付三兩宛
一金貮拾兩貮分永貮百文右馬飼料拜借〓分也。
但し五十疋の分壹疋に付永四百拾貮文ツヽ〓辰より五ケ年賦〓納
都合千四拾貮兩〓分永二百文。
一家数合七拾三軒潰家被〓共に坂本宿
此金四百三拾八兩但し返納右同断。
此〓
潰家三拾貮軒壹軒に付金四兩宛
破損家百四拾軒壹軒に付金貮兩宛
小〓積本陣壹軒此金三拾兩
一金貮拾兩永貮百文右宿馬飼料拜借の分也
都合四百五拾八兩永貮百文
一金六拾貮兩永貮百文坂本宿松并田宿安中宿
右宿々馬飼料五拾疋の分也但し返納右同断
一金九百五拾壹兩貮分永貮百文助郷村々馬飼料拜
借
但し高、百石に付貮兩づゝ來る辰より申迄五ケ年賦返納。
右之通り拜借被仰付候間拜借の儀は遠藤岡右衞門様御役所にて板倉伊勢様御家来より御取詰差支無人馬継立可〓〓被仰渡〓〓候。江戸武家町家〓人家町高の覺
一町數分千六百七拾八町家通り家数十万八千軒
此人〓〓〓三万五千七百拾人外に出家貮万六千九〓〓人、山伏三千人、禰宜九百人、吉原の分八千九百四〓人。
人数〓高貮拾七万四千六百四十一人、武家人数五十二万三千九拾人右の人数一日に五合づゝにて米高五千四百八拾八石六斗五升但し四斗俵に直し壹万三千七百貮拾貮俵貮斗五升代金六拾八万〓千七百三十九兩三匁五分。
右の通り江戸中一日の入用なり卯八月七日御勘定所より御書の寫し也。(卷の上終り)