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項目 内容
ID J0202111
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1782/08/22
和暦 天明二年七月十四日
綱文 天明二年七月十四日(西暦一七八二、八、二二、)是夜、江戸地強ク震ヒ、明朝又數、震フ、是時、相模國最モ烈震ヲ感ジ、小田原城市破壊シ、箱根山所々崩レタリ、房州ニハ津浪襲來シ、陸中モ津浪ノタメ被害アリ、三河・越中・飛彈ノ諸國マタ震フ、
書名 〔天明紀聞〕
本文
[未校訂]一七月十四日十五日夥數大地震にて相州小田原城中へ水押入り死亡せし者甚多く、此地下町家農家等へも同様水おし上ケ死人数しれす、此〓十五日ニ及て江戸へ注進到着也、此ひゞきにて右の両日共江戸中も餘程の地震也き、又大山石尊え登山之者、彼ノ地震にて困難云計りなく、石尊近辺ハみな大石こけ落ち、是が爲メニ死人怪我夥しく目もあてられぬ有様の由、此せつ御代官遠藤右衞殿手代沼津え御用にて参り被居候所、この辺は十七日ニ至て大地震なり、人家多くゆり潰し、同人止宿被致候旅籠屋も同様くづれ候故、無橡取物も不取敢表往來筋え駈出され候得ば、こゝかしこ地迫れ泥ふき出し候に付、又々裏之畑へ立拔かれ有合せの戸板等をしき其夜しのぎ被居候次第存も不寄難儀被致候由也、又甲州筋は同じく十四日より十六日まで引つゝきの大地震にて名高き猿橋もゆりくづれ、房州辺は大津浪にて一村人家一軒も殘らぬ處有之由、實に類稀なる大變なり、
出典 増訂大日本地震史料 第2巻
ページ 555
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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