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項目 内容
ID J0201583
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1751/05/10
和暦 寛延四年四月十五日
綱文 寳暦元年四月二十五日(西暦一七五一、五、一〇、)越後國地大ニ震ヒ、頸城郡被害最モ夥シ、高田城破損シ、桑取谷ニハ山崩ヲ生ジ、一時桑取川ヲ閉塞セリ、高田領全般ニ於ケル全潰及ビ燒失民家ハ六千八十八戸、死者千百二十八人、震災地ヲ通ジテノ死者ハ二千人ニ達セリ、
書名 〔東遊記〕
本文
[未校訂]越後國糸魚川と直江津との間に、名立といふ驛あり、上名立と下名立と二ツに分れ、家數も多く、家建も大にして、此辺にては繁昌の所なり、上下ともに南に山を負ひて、北海に臨たる池なり、然るに、今年より三十七年以前に、上名立のうしろの山二つにわかれて海中に崩れ入り、一驛の人馬鷄犬ことごとく海底に沒入す、其われたる山の跡、今にも草木なく、眞白にして壁の如く立り、余も此度下名立に一宿して、所の人に其有りし事どもを尋るに、皆々舌をふるはしていへるば、名立の驛は海濱の事なれば、惣じて漁獵を家業とするに、其夜は風靜にして天氣殊によろしくありしかば、一驛の者ども、夕暮より船を催して、鱈鰈の類を釣に出たり、鰈の類は沖遠くて釣ることなれば、名立を離るゝ事八里も十里も出て、皆々釣り居たるに、ふと地方の空を顧れば、名立の方角と見えて、一面に赤くなり、夥敷火事と見ゆ、皆々大に驚き、すはや我家の焼うせぬらん、一刻も早く帰るべしといふより、各我一と船を早めて家に歸りたるに、陸には何のかはりたることもなし、此近きあたりに火事ありしやと問へど、さらに其事なしといふは、みなみなあやしみながら、まづまづ自出たしなどいひつゝ、圍爐裏の側に茶などのみて居たりしに、時刻はやうやう夜半過る頃なりしが、いづくともなく唯一ツ大なる鐡砲を打たる如ク音聞えしに、其跡はいかなりしや、しるものなし、其時うしろの山二ツにわれて、海に沈しとぞおもわる、上名立の家は一軒も殘らず、老少男女牛馬鷄犬までも海中のみくづとなりしに、其中に唯一人、ある家の女房、水の枝にかゝりながら、波の上に浮みて命たすかりぬ、ありしこと共、皆此の女の物語にて、鐡砲のごとき音せしまでは覚え居りしが其跡は夢中のごとくにて、海に沈し事もしらざりしとぞ、誠に不思議なるは、初の火事のごとく赤くみえしことなり、それゆゑに、一驛の者ども殘らず歸り集りで死失せしなり、もし比事なくば、男子たるものは大かた釣に出たりしことなれば、活殘るべきに、一ツ所に集めて後崩れたりしは、誠に因果とやいふべき、あはれなることなりと語れり、余其後人に聞に、大地震すべき地は、遠方より見れば赤氣立のぼりて火事のごとくなゐものなりと云へり、松前の津浪の時、雲中に佛神飛行し給ひしなんどいふことも、此たぐひなるべしや、
出典 増訂大日本地震史料 第2巻
ページ 388
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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