Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J0200496
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/12/16
和暦 宝永四年十一月二十三日
綱文 宝永四年十一月二十三日(西暦一七〇七、一二、一六、)富士山爆発ス二十二日ヨリ地震ヲ頻発シタルガ、二十三日ニ至リ、東南山腹ヨリ大爆発ヲナシ、夥シキ灰砂ヲ噴出シ、相模、武藏等ハ降灰ノ害ヲ蒙ルコト甚シ、爾後時々地震及ビ降灰砂アリ、噴出ノ全ク止ミタルハ十二月八日ナリ、
書名 〔瀧口文書〕
本文
[未校訂]宝永四丁亥十月□富士山表口駿州大宮之民屋□其後地震日々無止而月を越、十一月十日此より富士山麓一日之内に、三四度づゝ鳴動する事甚し、同月二十二日之夜地震之する事三十度計、翌日之朝六ツに大地震、女人子ども周章、頻臥者其数夥數、然れども死人一人も無之候、同朝五ツに又地震、鳴動する事車輪如〓、而富士山麓駿州明野村之上木山と砂山との境より煙埋巻立登、其音如雷に而、民屋も忽潰ごとくに動く故に、壱人も家に居住難成、夜に入右の煙火炎となり、空に立のぼり、其内に鞠の如乃白物と、火玉天を突抜ごとくにして、上る事夥敷而、如晝輝、吹出る煙東へ押拂、雲の内にて鳴動する事如雷、天地に響、忽如落而火元より雲先迄如稲妻にて、夜は微塵も見へて、晝より輝、傳聞、昔日桓武天皇御宇延暦十九年富士山自燃て、山河水皆紅なり、晝は晴而夜は輝、其音如雷、銭を以て求録を不得と有、今以其節に無疑、須走村を始、みくりや領、二十三日晝五ツ時分より暗して、晝夜の分も不知、始には白灰とふらし、次には白色にして鹽石之ごとく、大なる軽石降、其内に火気を含、落ては則火炎と燃上る、二十三日之晝七ツに須走村禰宜大和家に火乃玉落、忽炎燒、須走町之者石のふるを凌ぎ立噪処に、夜九ツに又町之内へ火石落、不残須走村燒拂、二十三日より二十七日迄五日之内、砂之ふる事一丈三尺余、下は御殿場、仁杉村を切、東はみくりや領足柄迄、砂のふる事或は三尺或は四尺計づゝ降積、谷河は埋て平地となり、竹林は色を片(マヽ)て枯山となる、人の住べき様なし、二十七日之夜中より煙の出事日々薄して月を越、十二月九日○八日カ之晩、又右之如くに夥敷燒上りて鳴動ス、其夜半比、何やら二度火元より東海面へはねるを皆人聞、九日朝自煙消る、十日朝雪降、晝七ツに雲晴てあらはる、右之燒出し穴口より須走村之上へかゝり、富士山麓に大な如宝珠の新山出る、誠に吉田之儀は、本より神職浅間之守護深き故、須走境か古坂を切、下は上の原境を切、郡内領之内少燒煙不懸、殊に少も砂のふる所なし、折々煙册引といへども、西風起て吹拂、片時も暗事を不得して、旦那場へ出ざる御師は、二十三日〓浅間之宝前に集り、日々御山御安全、天下泰平、国土安穏、諸旦那長栄之御祈祷抽丹誠、煙鎮迄御宮に参篭而、感應成就、村裏無難之御礼進上仕候何も御覧之ため如斯に御座候
出典 増訂大日本地震史料 第2巻
ページ 233
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.001秒