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項目 内容
ID J0200495
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/12/16
和暦 宝永四年十一月二十三日
綱文 宝永四年十一月二十三日(西暦一七〇七、一二、一六、)富士山爆発ス二十二日ヨリ地震ヲ頻発シタルガ、二十三日ニ至リ、東南山腹ヨリ大爆発ヲナシ、夥シキ灰砂ヲ噴出シ、相模、武藏等ハ降灰ノ害ヲ蒙ルコト甚シ、爾後時々地震及ビ降灰砂アリ、噴出ノ全ク止ミタルハ十二月八日ナリ、
書名 〔田辺安豊のよめる長歌〕
本文
[未校訂]大元一氣く明靈一徳水、開闢よりふじの高峯の白雪は曇らぬ御代をてりそへる、惠み普き、日の本の漏めちかひの数/\に鶴の郡は千代かけて末は吉田と日に栄ふ三國一の大華表山は元来動きなき豊秋津州の要石鎮め靜謐り金輪の水際よりも湧出て天地和合の真神は常磐に栄ふ神がきや頃は宝永四のとし十月四日の地震につき湯花捧て神託の神告こそは有がたや押付喝の方よりも大火の難は來るべし二夜三日の神事して神慮をすゝしめ奉れと神はあがらせ玉ひけりさて霜月の廿二日くれ六よりも地震して五十度餘り、〓々と曉○廿三日よりは数しらず已の刻下りになりし時當山南に當りつゝ天より丸き鍾程の光下るとみえしより黒煙山のごとくにて鳴動しつゝ響音雷□も集りて一夜に落ときもつぶれ酉の刻より神鳴り電こそ頻にて戌の刻には火焔燃火の玉天へ上ること戰慄て惶しく廿四日の已の刻に霞の如く薄煙四方に懸り須走は石砂ふりて天火にて燒亡せしと聞よりも當地俄かに騷動し、女子童ふためきて爰やかしこにさまよへり戌の刻には大地震鳴ると光はいやましに廿五日は朝日さす又晝よりは曇りつゝ偖こそ廿六日より〓官神主神前に禁足しつゝ相つめて御山安全天長久地は萬代の御祈祷に西風出て黒煙も鳴りも漸く靜まれば丹城無二の大祝詞に近郷遠里の参詣は稲麻竹葦の如くなりあくる廿七日もけぶりは高く見えけれど午の刻より日かげさす廿八日九日には鳴も光もやはらぎて日かげてりそふ大鳥居砂のふらぬに神まうで貴賤群集の人こゞろよきもあしきもひらすらに国も豊と祈念するみそかの戌の刻過に地震煙も大きにて火の玉上りやけ出るされども師走朔日は日の神朝より奉拝す二日は同じ様子なり三日の夜もくもりつゝ明日四日の曉には雪ふり白く見えければ又己の刻に地震して夜半迄止ず火の玉は大きに出て惶しく五日は殊にみなみかぜ晝過までは鳴動すされども申の下刻より煙も鳴もしづやかに六日七日は朝よりもなほ明かに日の神の御影一入ありがたや八日も地震も度々にして子の刻ばかりに大動し火の玉猶も多ければ千早振しく神風に寅の刻より鎮りて彌々高きふじの山駿東郡足柄より不二山まで村里も草木も見えず埋れて皆黒山となりぬれば小河の水もたえだえにのんどうるほす、ほどもなて人倫道路のわづらひは草木における露もなしふじ参詣の人々は御江戸高井戸八王子谷村と聞て上るべし新山見度かたがたは不浮ヶ嶽を少し行女ふじにてよくみゆる大山掛の順礼は荻野飯縄三増越え根小屋鼠坂吉野まで道法八九里出ぬれば富士道中のしるしには忌服をはらふ注連かけて火を改て御やどするまことのみちは神と君八百萬代もうごきなき永代の形見なり宝祚も隆座大樹枝集も徳當御代瑟々間々然篩整黎民竈の煙も靜々然国も豊に鎮りて常盤かきはの御代ぞめでたき
出典 増訂大日本地震史料 第2巻
ページ 232
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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