西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。
前IDの記事
|
次IDの記事
項目 |
内容 |
ID |
J0200463 |
西暦(綱文) (グレゴリオ暦) |
1707/10/28
|
和暦 |
宝永四年十月四日 |
綱文 |
宝永四年十月四日(西暦一七〇七、一〇、二八、)五畿七道ニ亘リ地大ニ震ヒ、続イテ九州ノ南東部ヨリ伊豆ニ至ルマデノ沿海ノ地ハ悉ク津浪ノ襲フ所トナリ、其ノ餘勢大阪湾、播磨、長門、周防ニ達シ、大阪ニ非常ナル災害ヲ生ジタリ、震災地全部ヲ通ジ潰家二万九千戸、死者四千九百人ニ及ベリ、マタ土佐ニテハ地形変動ヲ生ジタル處アリ、 |
書名 |
垂憲録 本藩譜云*〔松山叢談〕
|
本文 |
[未校訂]十月四日未上剋大地震、道後温泉不出、於道後湯神社御祈祷被仰付、御自身様にも神代より出る湯此方代に至り不出は不徳故の事なりと、御謹心厚く御祈念被遊、尤御断食にて有しと云、然るに其中日比より湯少々づく泉み出候旨注進あり、夫より一寸二寸と出で元の如く出しとなり、○垂憲録、温泉不出間、本藩譜云、百四十五日、翌年閏正月廿日霊湯再出 垂憲録拾遺云、十月四日八時より同六日迄関西大地震、勢州紀州土州別で高汐上る、道後温泉没、依之於湯神社御祈祷あり、翌年四月朔日より湯出る、此時湯神社へ木千本植る、但温泉没して不出節、菅沼茂左衞門へ湯月八幡宮の異夢(イ靈)有之、翌年四月より湯涌出る事を知て、社人へ兼て此事を語り置しが、其言少も不達由也、録者云、本藩譜によれば湯の再び涌出しは閏正月廿日とあり、何れか是ならん、今是を詳にする能はず、 但十一月廿三日富士山燒、関東燒砂降り、日々夥しく震動、其后富士山の八合目脇に損込見ゆる、依之宝永山と異名すと、
|
出典 |
増訂大日本地震史料 第2巻 |
ページ |
210 |
備考 |
本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
|
都道府県 |
愛媛
|
市区町村 |
松山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる
|
版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)
IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る
検索時間: 0.001秒