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項目 内容
ID J0200386
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(西暦一七〇七、一〇、二八、)五畿七道ニ亘リ地大ニ震ヒ、続イテ九州ノ南東部ヨリ伊豆ニ至ルマデノ沿海ノ地ハ悉ク津浪ノ襲フ所トナリ、其ノ餘勢大阪湾、播磨、長門、周防ニ達シ、大阪ニ非常ナル災害ヲ生ジタリ、震災地全部ヲ通ジ潰家二万九千戸、死者四千九百人ニ及ベリ、マタ土佐ニテハ地形変動ヲ生ジタル處アリ、
書名 〔宝永四年、安政元年震災記〕○田辺町鈴木融氏所藏
本文
[未校訂]宝永四丁亥年大地震舊記田中仁右衞門寫
宝永四年丁亥十月四日午下刻大地震道二丁程の間大地割れ山中の大磐石抜け出で家多く潰れ石に打たれ死亡せるもの牛馬とも数を知れず然れども死人怪我人無き所もあり石垣なども多く潰れ残れる分は石張り出し候由三番兵生村山つぶれ夥しく北部ホクワギ眞砂近露辺にては石に打たれ死せる者あり、其内北郡は多し其外此辺にも死亡の者多し、同時に浦々大津波上り家宅浪に流れ人牛馬とも流れ死せり金銀財宝衣類悉く流失し、田辺領にても富田は大破損同所の大庄屋三栖弥三郎方家財流失し田辺大庄屋岡本彌惣衞門も同様然れども是れは流残りて大破なり惣じて御領分は在中町とも流れ藏、牛屋、馬屋とも凡合せて千六百八拾軒餘潰れ家藏、牛、馬屋とも凡合せて九百七十六斬なり流れ又は打たれて死せる人九十九人其内富田にて女死亡者多く候馬合せて拾四疋牛参拾壹疋田辺にては江川片町本町紺屋町の家々浪に流され残れる家もあり浪は川をつたひ入り下秋津大庄屋目良彌右衞門の家の前迄大船浪に連れ行かれたるが貮艘損じ申候陸にては下方呂村天王池の際まで浪上る然れども諸士の屋敷並に湊新屋敷、新座町筋へは流れ入らず袋町長町も町半分浪入る其深さ三尺四五寸程なり、
御城内へは浪入らず濱手、裏御門は蹴放を浸せるばかりにて表御門前は芝の浜へ浜手より浪さし込み深さ膝をすぐるに至る馬場丁東の端役屋敷前迄浪來る大手筋は片町表の堀より浪さし込む、御城は聊も恙無し諸士屋敷は地震にて大分破損御城より北大手筋屋敷は水島太郎兵衞、生し〓う田市左衞門、安藤權左衞門、廣田七兵衞、林六郎左衞門、野村彦左衞門、中根治部右衞門此の分は地の底岩石にてこれ有るか少しも苦しからず地の底岩にて候へは苦しからずとのよし江川は大橋當春新しく掛け候處浪にて三つに切れ落ち流れ候午下刻より同夜子の刻時分まで大小の浪十二度其内大浪五つは初なり地震止み候時富田、三草、鴨居浦の間海上に仁王の如く眠は日月の如くなる者五六尺四方程の大亀に乘りて顕はれ出づ但肩にも三尺四方の亀取り付き之れあり暫く四方をきつと見廻はして海底へ沈み候よし慥かに見たる者あるよし沙汰致候若山御城其外少々破損有之候へども大破は無之候由印南、嶋田は大に流れ大被損同所より若山迄の浦々奧熊野浦々大泊り日置浦其外一在所も残らず家は流れ候も有之江田組大庄屋浦儀八杯は二三里も沖へ流れ出で又打上げられ命は助かり候由總じて浦辺之儀は目も當てられぬ有様なり、奧熊野浦にて女の指を口に含みたる男の死骸上り候由江川富田にても沖の方へ家に乘り戸に乘りなどして又流れ出で又打上げられて命助かりし者有之候由新宮御城大破塀まはり石垣、壁破損致し候由然れども天守は崩れ申さず候へども大分傾き候よし町も大破損なれども浪は入らず地形を搖り下げ低くなり候様に有之候由惣じて何地も地形を搖り込み山なども低くなり候様に覚え候、新宮にても神の倉權現は破損無之少しも動かず候由尤地震より三日前に楔を打つ普請など致し候様の音致し候故諸人不思議の思ひをなし罷在候よし奇妙の取沙汰に候那智は大破損所々石垣崩れ候由本宮は格別破損は無之候由湯の峯、山地、龍神、瀬戸鉛山の湯止む高野山の破損多し大地震最初ゆり出し候時は暫く世直し/\と申し鑵子の蓋などをたゝき候へども次第に大地震となりころび候て居坐ならず難〓につき家の内の火を消して逃げ候へども早や石壁なども潰れ皆々廣き所の田などへ集り家々の様子を見れば兎角船を高浪にて上げおろす様にて屋根へ、地へ付くやうに相見え申し候或は小兒を抱へ逃げ出でし人も地ゆるき候事故少しも足の踏留むることならず、ころび申候走るに足の踏み所覚え申さず人々氣を取り失ひ絶え入る者多し子供男女とも泣き叫び騷ぐこと大方ならず驚聲夥しきことに候末だ見聞かずといへども、阿鼻叫喚あびきやうかんの形勢もかくやとばかりにて候其内大地震止み候へども小地震は間もなくゆり候故家の中に入ることならず未の下刻時分則田畑の廣き所へ取りあへず小屋をしつらひ移り居申候大地震止むと未申酉の方大鉄砲を放つごとくどん/\鳴出し未の中刻時分迄鳴り申候是れは察するに津波の上る音にて有之候津浪に付金銀財宝銀札衣類流れ散り皆人々逃げ散り流れ残り候家々も悉く空家にて有之候故盜賊ども盜み取り盜賊ならぬ者にても百人が九十九人迄心きたなく後闇うしろぐらき者多し貧乏が俄に富人となり富人が一日の内に貧乏人となるものあげて算ふべからず、其後御吟味御詮索大方ならず御調置成され候也同月下旬の頂までは一晝夜に二十度三十度づゝ小地震致し膽を消し申すのみにて有之候然れども長々の小屋住居もなり難く地震も次第に間遠に相成候に付同月二十一日に本の宅へ帰り移り申候何づ方も同様小屋に十日十五日づゝ居申候田辺は愛宕山、蓬莱山、上野山へ諸士町人とも皆々逃登り小屋を致し十日十五日づゝ罷居候斯の如き地震の節は皆々周章あはて申す事に候何にも構はず只火の用心第一○○○○○○○に致し兎角火を打消し早く家の内を逃出で山潰れ又は石などの來らざる四方の廣き所に居るがよく候竹籔の内もよく候由竹の根からみ候故地割れ難く候由心ゆるぎ動くに心弱きものは絶え入申者逃出づるに氣力を持ち候様心に掛くべし牛馬には氣の付かぬ者にて馬屋へ繋ぎ置きながら逃るものにて候心を付くべき事に候牛馬鷄犬の類迄仰山顔を動かすものにて候津波上り申す前は汐干と申すものゝ由夫迄はなく海辺近き所の筒井惣て堀井にて知れ申す由大地震の節は或は水壹斗有之井に候へば貮斗にも俄に増し泡立参り申候海近辺の所は地震有之候へば先づ井戸を見るがよし津浪の参る時はいつともなく浪高くなり候てずん/\陸へ上り参る由殊の外急速なる者にて無之よし第一川や堀をつたひ参るものにて引き申す時は誠に急速にまくり立て瀬枕を打つて引き申候上り参り候節は家等も流れ行くばかり破損無之候へども引汐の時皆々壞れくる由に候扨地震致すべき時は天は晴れ候て浮雲微塵もなく晴天の由大地震の節は其通りに候へども如此にも限らず惣じて地震致すべき時は天は常よりも低く見え申すものゝ由津浪故塩なく殊の外不自由にて一升代壹匁八分九分貮匁或は壹匁五分三分少し下直に相成七八分壹匁いたし候今度の地震津浪一に土佐二に薩摩三に紀伊と沙汰いたし候ほか国にも地震津浪有之候ひしも右三ケ国大破の由其中土佐は国二つ搖り割れ中海になり候由尤國主松平土佐守様にも浪急速に付玄関よりはだか馬に乘り御道れ候よし家中の面々過半死亡いたし候而江戸参勤の御人数殊の外不自由にて御顧成され御免の由風聞いたし候関東小地震江戸も左程の事にても無之候去りながら小田原迄は夥しく家等悉くゆり、潰れ申候前々より関東は折々地震ありし由に候へども上之方此の辺の儀は不聞候事に候五十一年以前五月中旬中地震いたし候由當年八十七歳に相成老人の物語りに候夫れはゆり候計りにて跡より小地震も無之山大地等破損無之津波も無之候今度之様なる家にて壓にうたれ死にし者紀州他国とも幾千萬といふ数をしらず希代の事に候翌年宝永五子の年正月頃迄大中小の地震一晝夜に五度七度づく絶えざる事に候、
右宝永四年より嘉永七寅年迄凡百四十八年
右嘉永七年は即ち安政元年に改元せられし年なり、宝永四年の大地震三栖郷土誌抄
宝永四年亥十月四日午の刻大地震起り大地割れ山崩れ夥しく候田辺御家中町屋共多く潰れ申候地〓〓後追付け津波揚り田辺江川并に本町片町紺屋町〓〓流失江川橋も落ち下萬呂村大籔の本迄流参の舟多し下秋津伊作田村辺へ流参の人も餘程相果申候但下長町迄波上り申候夫故諸士方町人共権現山愛宕山辺へ逃げ三四日は山住居致し候其以後も一日一夜に六七度づゝ明る子の春迄毎日地震致し候、
出典 増訂大日本地震史料 第2巻
ページ 126
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 和歌山
市区町村 田辺【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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