Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J0200382
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(西暦一七〇七、一〇、二八、)五畿七道ニ亘リ地大ニ震ヒ、続イテ九州ノ南東部ヨリ伊豆ニ至ルマデノ沿海ノ地ハ悉ク津浪ノ襲フ所トナリ、其ノ餘勢大阪湾、播磨、長門、周防ニ達シ、大阪ニ非常ナル災害ヲ生ジタリ、震災地全部ヲ通ジ潰家二万九千戸、死者四千九百人ニ及ベリ、マタ土佐ニテハ地形変動ヲ生ジタル處アリ、
書名 〔弘列筆記〕土佐国群書類從所載
本文
[未校訂]一宝永四年十月四日、朝より風少もふかず、一天晴渡りて雲見えず、其暑きこと極暑の如く、末ノ刻ばかり、東南の方おびたゞしく鳴て、大地ふるひいづ、其ゆりわたる事、天地も一ツに成かとおもはる、大地二三尺に割、水湧出、山崩、人家潰事將棊倒を見るが如し、諸人廣場に走り出る、五人七人手に手を取組といへども、うつぶしに倒れ、三四間の内を轉ばし、あるひはのけに成、又うつぶしになりて、にげ走る事たやすからず、半時ばかり大ゆりありて、暫止る、此間に男女気を失ふもの数しらず、又暫くしてゆり出し、やみてはゆる、幾度といふ限なし、凡一時の内六七度ゆり、やまりたる間も、筏に乘たるごとくにて、大地定らず、われさけたる所より、泥水わき出、世界も今沈む様にぞ覚ゆ、其時(後カ)半時計あつて、沖より大波押入ると声々に呼はり、上を下へとかへし、近辺の山に迯上る、たゞ前後辨るものなし、此外在々浦々まで、かくの如し、又迯行うちに地震ひて老幼殊に難儀に及ぶ、間もなく跡より大波うち入り、御城下廻り、堤不残打こえ押切、大朝入込み西は小高坂井口、北は萬〓久萬、秦泉寺、薊野、一宮、布師田、東は介良、大津の山の根まで、一面の海となる、大浪打事都合六七度、其浪の高さ五六丈もあるべきや、されど西孕の山にて波をふせぎぬれば、御城下の方は大浪不入、大潮うづまきおしこむばかりなり、其外海浜の在々、同時に大浪打入り、其破損左に記目録の如し、其日もくれになれど、入込たる潮不引、其うづまき、早き事矢の如し、又地震止事なく、人々生たる心地するものなし、此時、國守より海浜の山々へ貝役を遺はされ、沖より大浪見ゆる時は、同時に貝をたて(吹脱カ)告知らすべきとの事なり、五六日の内は、寅賎山篭りし、あるひは高き岡にあれども、しばしの間も安き心はなし、浦戸、御疊瀬は後に山あるゆゑ死人鮮し、種崎の浜は、死人最多し、浪入数度の内、初度二度めは強からず、三度目の浪高サ七八丈ばかり、此浪に磯崎御殿不残流失す、まことに時移り事去り、世は定めなきとはいひながら、今まで平らかなる波、〓しのうちに起りて、彼御殿をはじめて、所々民家に至るまで、暫時の内にゆりたふしおし流し、算を乱すごとくに、数百の男女老若、波にまもれ、あるひは大海へおしながされ、あるひは磯へよるといへども、巖峨々としてあげべき便りなく、又木屑にとりつき、磯近くなれば、声あげてたすからんことを乞ふ、あるひは浜辺のもの、網なんど取集めて投かけ、おもひおもひに助るもあり、また運命つたなきものは、引汐にゆられ流れ、あるひは五臺山、吸江、薊野、秦泉寺の磯にあがるもあり、されども親は子にはなれ、子はあがれども、親はなく、又家あれども住人なく、人あれども家宅なし、此時にいたりて國中の難儀たとふるにものなし、此時国守より御侍数十人、東西へ遺はされ、其最寄々々にて、諸民の飢を救はせらる、また種崎浜の死人、地震の後廿日許、声空にのこり、雨夜などには、数百人の声してたすけ給へと呼ぶ、聞くもの魂を失はざるものなし、此地震は城下廻り六七里がうち、大地七八尺許りゆりさけ低くなり、津呂、室津の辺は又七八尺も〓來よりゆりあげ、高く成る、これより津呂の港、船出入不成、通路不自由なる故急に御普請ありしかど、もとの如くならず、此後此港船の出入不自由に成しなり、同九日、十日に至りて、潮引浪も靜かに成て、山々に篭りたるもの、夫々家にかへりて住居す、此ころ、大門筋帶屋町下より一丁二丁の内、唐網あるひはすくひあみにて、海魚数多とりし也、また愛宕山の麓にては、鯖、鱸、王餘魚など、夥敷とりしと云、但此月の末まで地震止ず、日中七八度、夜へかけては二十度にも及ぶ事毎日なり、大地ゆらつきて定まらざる事、前に同じ、ゆり出さんとする時は、かならず大筒を側にて打如く、夥しく鳴渡るなり、此地震、日本國中残る處なし、但京都は少し、東海筋は大抵尤破損多し、九州路少々破損あり、四國甚しう、其内土佐、中にも大破なり、外にも津浪入、死人過分の所も有と云、破損覚、
一流家壹萬千百七拾軒
右之内
壷斬浦戸御殿、
四拾貮軒御船屋并役家共イ敷、
八拾九軒浦々分一家御藏、番所共
七拾五軒寺社、
壹萬九百六拾参軒民家、
内五千百拾七軒郷、
五千八百四拾六軒浦、
一潰家四千八百六拾三軒
右之内
五軒御船屋
百七軒御侍中屋式
四千七百三十軒民家、

二千二十二軒町、
千九百九十四軒郷、
七百拾四軒浦、
二十四軒寺、
一破損家千七百四十貮軒
右之内
三十五軒御船藏、
十二軒御殿并分一家但従赤岡野根迄道筋等共、
九十三軒御侍屋布、
四軒堂社、
千五百九十八軒民家、

七十五軒町、
但此外小破ハ家並残無之、
千五百二拾三軒郷、
一死人千八百四十四人、
内五百六十一人男、千二百八十三人女、
一過人九百二十六人、
内八百九人男、百拾七人女、
一流失牛馬五百四十二疋、
内百六十八疋牛、三百七十四疋馬、
一過牛六疋
一流矢米穀貮萬四千二百四十二石
右之内
壹萬四千百八十四石米
七千九百四十石籾
千九百九十二石麥
百二十六石大豆
一濡米穀壹萬六千七百六十四石
右之内
八千四百拾八石米
八千貮百三十壹石籾
百拾五石麥
一流失鹽四百八拾六俵、
一同茶三百三十丸、
一同鰹節五十萬八千節
一同破損船七百六十八艘
右之内
百七拾貮艘御手船、
百三十六艘賣船、并○以下、本書ニ缺ゲタリ、
四百六十四艘漁船共并共、
一流失網四百三十九張、
一同浦々鹽燒道具不残、
一同材木五萬四千六百本、
一同保佐松節共六百八十三艘荷、但十端帆積之積・荷ニ〆、
一同起炭貮拾艘但右同断、
一損田四萬五千百十石餘、
一堰川除、堤破損四千百九ケ所、
一流失板橋百八十八ケ所、
一筧九百九十二艘、
一井流六十七艘
一亡所之浦百三ケ所
内四十二ケ所郷、六十一ケ所浦、
一半亡所三十六ケ所、
内三十二ケ所郷、四ケ所浦、
一山分山崩畑作雜穀、過分損失、積不知、
一港三ケ所大破、
一御國中往還之道筋及大破、往來不自由之所、数ケ所、
右破損爲御注進、江戸表へ御奉行山内主馬殿被遣之
一宝永五年正月四日より、山田橋より石淵迄の内往還御普請出來す、比島より山田橋までは、大道分繕ひ、鹽田橋の詰より比島の人家までの堤は、新に築成して潮留す、地震は此此までゆること毎日なり、、、、、、、、、、、、、、、、
一同五月、梅雨常の年の如く降り、其内二日三日ならず、六月六日晩景より大雨夥敷ふり出して、七月末まで三月の間、雨不止、又其うち雨ふらぬ日もあれど、空はれず、此間東〓は夥敷日でりのよし、また去年以來地震、此雨に至りてやすらふ、ゆぶつきし地もかたまりて、動く事なし、漸安堵の思ひをなせり、
出典 増訂大日本地震史料 第2巻
ページ 119
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.003秒