六 慶長の円頓寺の旧記−震潮後の記録−
徳島県海部郡宍喰町多田貞助氏所蔵の古文書で一枚ものであるが、裏面に慶長九年師走の震汐後のことが記されている。
『阿州海部郡宍喰村新寺一寺駅路山円頓寺御建立成来旧記之事』
(中略)
(裏面)
一 大変の当分三日四日之内ハ所中の泉#も大変の砌之趣ニ又してハとろ水わき出申候折節ハ土底#水に吹出候哉珍敷魚等も吹出候人々申候ハ此世界の魚に似申魚ハ無之候何にと申魚ニ而候哉かつかノすさましく世の常の魚のひれ有所に皆々はりの様ニとかり有もし尤口見ハ牙の様ニ相見へ申候尺ハ五六寸計ニ相見へ申候珍敷物を見申候ニ付乍次手書記申候 極月廿四日の九つ時也
一 此旧記辰極月廿八日に古城山之楠木に懸り有たり白、取人見出候へ共何分此通所中之すす水に垢に而塩出候へ共おり不申候後世迄も相残置被下候ハゝ人々御覧し候而御驚可被成候大変之翌日川口松原#惣西上分町中共一面にすす水色に土染り申事ニ候
『大日旧記聞書』
一 乗山惣持院 大日寺住寺急□之れを記す 時に享保六辛丑(一七二一)七月十五日入院
大日旧記聞書
御□□并寺物御証文
縁起聞書
享保六辛丑七月十五日に入院宍喰浦里郷分旦那当寺末寺六ヶ寺門中評定
上 施餓餽の一座に於いて
先住恵田法印隠居八月七日に郡御奉行御断り申上げ隠居入院の付届け相済み翌年正月十五日続目の御目見へ天羽半兵衛殿御取次ぎ仕廻い帰寺致し入院三年にしての内 恵田遷化 其の内 古来之旧記あらあら覚の口上筆写ス ツクル 慶長九(一六〇五)年の大浪に隠居法印宥伝□□永(正 脱カ)年中十五ケ年以前に大浪に流□□当寺建立の開基は天正弐(一五七四)年御□□外に旧跡無住の寺あり今の土地へ旧跡御取替へ今の寺内大師堂談儀所とし此の所へ御引き遊させられ一乗山惣持院大日寺と蓬庵様御直に寺号毎付け遊ばされ候由旧跡の土地畠四反上田壱反下し置かれ候申伝う畠いずれの所を存ぜず上田は一反は有り
右の旧跡は永正年中(一五〇四〜一五二一)より天文(一五三二〜一五五五)迄は繁昌の寺也といへども天文拾八(一五四九)年のころより乱世度々これあり其の後
候替り無住と成るなり元亀三(一五七二)年の末より乱世鎮りて天正元(一五七三)年に海部一郡の城主左近の将監と申して切敷領主と成ると言う 又一統には益田豊後殿より右年に成り申伝う 其の後 御当代蜂須賀阿波守茂成公の御先祖蓬庵公の壱国の城主と御成り遊ばされ海部諸関旧跡御境内御改に付き大日寺御建立御取立其時の住僧御上より住持仰付させられ治国利民の法 修行すべき旨 御折紙御法度書 即ち御守御本尊普賢菩薩之絵像御渡し遊ばされ候得共慶長九(一六〇五)年十二月十六日地震大浪に寺社町家流失 大切なる御証文それより失し 万荼羅涅槃像御守御本尊
一器に有て海部の海上に浮び猟船ひらい大日寺へ送る
慶長九庚辰(一六〇五)十二月十六日地震大浪日比原在迄流失時代の住持溺死栄融と申す也 隠居宥伝再住翌年当寺御建立也
其の時 宥伝古来の伝記 当寺の旧記 具にこれあり候得共 宝永年中の地震大浪寺半分打くずれ仏道具旧記伝起の帳面流失本尊過去帳取りにげ其の内に□□二ツ有り御証文残り有り万荼羅涅槃像□
蓬庵様御守御本尊は床に懸り有て流し其の年の十二月三日にひらいし人 芥付村治郎左衛門 磯にてひらいし由 追って聞付け寺へ迎え奉り汐出し致し候得共裏書の所なく成り然れ共 尊像 爰に無く不思議なる事 御信法の故やらんとなみだをこぼす事也と言う
(地震 津浪 嘉永録)
それより九拾三年を経て慶長九辰(一六〇四)年十二月十六日辰の半刻(午前八時)より申の上刻(午後四時)まで大地震にて大海三度鳴り渡り戌の下刻(午後九時)月の出のぼるころ大浪となり海上 以っての外すざまじく浦中の井泉より水湧出ること弐丈余も上り大地さけ泥水を吹出し言語を絶する大変なり当所は勿論家壱軒も無し 人多く損しその数かぞえがたし この時宍喰千五百人溺死ありと筆記残る 誠に目も当てられぬ死骸なり 久保在の内弐ケ所 惣塚をこしらえ此の所に埋めて石仏の地蔵を建て置きこれあり候 是も宍喰浦の筆記の写しなり