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項目 内容
ID J00007053
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1605/02/03
和暦 慶長九年十二月十六日
綱文 慶長九年十二月十六日(西暦 1605,2,3)
書名 〔私説 勝浦史〕
本文
二六 慶長の大地震
房総記
慶長辛丑年十二月十六日大震 山崩(レ)海埋(ウズミ)或(ハ)成(ナズ)岳(ヲ)房総(ノ)
海上 俄然潮退(ク)殆(ンド)一里、而為(ス)乾斥(ヲ)者 二日一夜(ナリ)同十七日至(テ)夜半海澳大(イニ)嘯(ウツブキ)而高涛如山起(リ)莫然(トシテ)忽(チ)来(ツテ)ツク(衝)臨海(ノ)岩額(ヲ)瀕村(ノ)人民溺没不可算(カゾウ)凡為(アイ)遭(タル)潮害之民、在アリハテ本郡ニ勝浦、沢倉、新官、部原、御宿、岩和田、岩舟、矢指戸、日在、小浜、渋田(中略)在長柄郡(村名略す)総計四十八ケ村也
按(ズルニ)凡ソ井水(セイスイ)無(ユエナク)故(シテ)遽凋(ニワカニカレ)海潮不時(トキナラズ)大乾者(イニカワクワ)皆為(タル)大震海嘯之兆可知也 鳴呼当年沿海(ノ)諸地 未開蒙昧之民不知其災害避(タルヲ)於未然(ニ)茫乎(タル)二日間竟(ツイニ)使(シテ)幾多生霊葬魚腹(ニ)也 豈可(ケン)堪(ユ)憫惻(ユ)乎(ヤ)
(中略)
一方当代記によれば「前文略−地震ハ所ニヨリ大小有リ関東モ同然上総国小田喜領海辺、取分ケ大波来テ人馬数百死、中ニモ七村ハ跡無シト云フ」とあり。朝野旧聞も「上総小田喜(註、小田喜領を指す)はこと更涛勢強く人馬数百死し七村みな流失す」とある。
其他本朝通鑑三災録にも同様に記しているが、長文なので転載は略す。これらは皆慶長九年のこととしてあり、さきに挙げた郷土史が悉く慶長六年としているのとは年代を異にしている。
(中略)
なお、従来千葉県下の郷土史家は郷土史上のこの記事を鵜呑みにして慶長六年説をとっているが、それは誤りであろう。この地震津波について勝浦にはいろいろの伝説がある。例えば今のお千代が島、平島は当時陸続きで、平島にある神社があったが土地が津波で崩壊したので神占を得て移転したという類である。このような伝説があっても一度や二度陸地へ海水が侵入したとしても、土地が忽ちにして溶け去って海と変ったとは考えられない。これは総て嘘とみるべきである。
ついで乍らこのお千代が島についていえば、この島は徳川時代では旧名槌島または打瀬島或は宇都江島といい、陸地に近い方は遊び島といったが、それは往昔の文献で明かである。浪打つ島の意であろう。明治初年には宇都江島であったが、明治三十四、五年私の子供の頃には宇都江島を訛って、おつちよじまと呼んでいた。この地が海水浴場として都会の人々が入込むようになり、いつの間にかお千代が島と変化した。そして昔御千代という女海士がいて、この島で大蛸を見付けて蛸の足を一本づつ切り取ったが、最後の一本を切り取らんとした時、蛸にすい込まれて死んだというのである。この説話は東北の沿海にもあるというが、明治の中期にこの地にも出来た話らしい。
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
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備考 [古代・中世] 地震・噴火史料データベースでは史料等級で分類しています。本データベースでは史料等級の低いものも表示しており、信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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