慶長九年(一六〇四)に徳島県海部(かいふ)郡宍喰(ししくい)町を襲った大津浪のすさまじさを克明に記録した古文書が、このほど地元のお寺で見つかった。
宍喰町は、徳島県の県南、高知県との境界にあり、紀伊水道に面し、永正・慶長・宝永・安政、近くは昭和二十一年の南海地震にいたるまで、過去に五回も大津波をともなう大型地震の直撃を受けているが、こんどの古文書は災害史(地震・大津波)の一面を説明する資料としてかなり詳しい。
古文書は、宍喰町の大日寺に保存されていた。縦十六センチの巻紙一巻に墨書され「慶長九年 大変年代書記」と記され、津波のあった翌年の慶長十年(一六〇五)一月、円頓(えんど)寺住職宥慶が記録にとどめ、のちに複写したことが書かれた付け紙(別紙)がある。
これまで慶長の大津波に関する資料としては、安政四年(一八五七)に書かれた「宍喰浦旧記」がある。
この内容は、徳島県出身で、明治時代に東京帝室博物館評議員をつとめた小杉温邨氏が集めた古文書を元に、大正二年に出版された『阿波国徴古雑抄』にその一部が紹介されているが、今回見つかったものほど詳しくないので、ここに大日寺の古文書の全文を紹介する。句読点やふりがなは筆者が入れたものである。
乙巳正月廿一日ニ相尋書記候。
一、慶長九年十二月十六日大変年代書記
浦里真言結衆 大日寺 栄宥 歳三十七歳
真福寺 宥真 四十九歳
正福寺 有厳 五十弐
西光寺 良雄 四十五
成福寺 宥応 三十四
円頓寺 宥慶 二十六
大月寺 栄有
之儀は先に書記通、御影おひなから流失召されいたわしき事と申暮候。仍之、正月廿一日ニ於正福寺、為栄宥、正福寺宥厳志ニ而、五ケ寺打寄、廻向申候。其頃、栄宥命日廿一日と定候。
第一
一、当浦慶長九年十二月十六日ニ辰半時#申上刻迄大地震ニ而、前代見聞の大変、同酉ノ上刻、月の出の頃#大浪海底すさましく惣所中の泉#わき出ル所、二丈余上り、其外地さけ、とろ水わき出、さてさて言語を絶する大変、其頃面々等も遁者所寺#申ノ方ニ当り古城の小山有、是へにけた人数百七十余人成、夫も老人又ハ幼少人ハ道ニて浪に打たをされ皆々流死す。漸面々も本尊と当寺御建立の御証文知行折紙二通御棟札其外手廻ニ相当物迄取にけ命からから遁去候。長福寺本尊ハ開山願主東林の本尊をおひにけ、是#上に在所有、日比原村と申道筋、堤下ニ而、本尊おひなから老人の事故、足おそく終に浪におほれて死ス。東隣真福寺宥真と拙僧事ハ本尊手廻ニ有応物を取にけ命助候。
三ヶ寺結衆之内にも大日寺栄宥ハ一度本尊をおひにけ、又々大師尊像取に下り、御影堂のおりだん迄大師をおひ、引塩之砌故、終に浪に打たをされて流死、御影ハ長福寺のかこひにかかり、其節、惣寺下皆々たをれ申候。山野に宿所三日三夜雪霜に、其後さてさて衆人難儀いたして、就中、神変成哉、当所之両社八幡祇園拝殿迄ハ、皆々流失シ本社之儀は山手へ浪に打たをされて林の木にかかり有其侭取立て、殊に祇園宝物大般若六百軸ハ祇園内殿に入有、皆流失なく浦里氏子打寄、快喜不過之候。夫#国家浦里の祈祷に大般若転読いたしはしめたく旨、宥真被相願浦里六ヶ寺結衆打寄ニ而、於祇園、致転読、正月十一日を定日として致修行し、相并三ヶ寺も皆々浪に打たをされし候故、追而、古道具取さわき柱おれ不足申候ニ付、日比原在之内ニ而、寺山と申峠ニ而、大松壱本#(もらい)、多田氏荘助殿#従上へ相窺、当寺取立被申候。外寺々へも相応に上#竹木被下候。
其外所ヘハ不用及米麦等も渭津(いのつ)#船ニ積廻、所惣分御救被成候。尤流失後、早々見分奉行被参候而の上之事ニ候。何角、筆に記残度事ハ山々ニ候へと、言語にも難申、筆にも難顕事なれともせめてハ国元への通路の印に書取と筆を残し申候。扠て扠てあわれ成事、後世の人々、可驚事。
第二度目書記、八ツ時宥真同道ニ而、町筋ニて書也。
第一山野凌之内ほうろくニ而、食等煮焼して命をつなき申候。一代一生之内にこもかふりと成たる事、平生のあやしき#も大切成事の処、くれくれも申たる事ニ候。古こも迄も流し候事故、大切成事、至極成至極成。
一、当寺且中流死人数老若四十三人、大日寺且中二十三人、真福寺且中九人、長福寺且中六十一人、里分両方の且中も入込死申也。自他共惣人数一千五百余人と申候。あわれ成事を見聞いたし候也。翌日十七日八ツ時ニ下り候而見申所、城山#西北方一面の人の死骸、目も当られす候。東#北往還道筋へかかり候而も右の通ニ候。其節、久保之在所之内ニ而も二ケ所惣つかにいたし死人埋申侯。其後、地蔵、石仏、相立置候祇園西手の山きわなり
慶長九年十二月十七日
未刻記之
円頓寺宥慶
追而書記
第三、十九日四ッ時ニ寺内ニ而見分いたし候。
一、惣代寺中の諸道具、何に不寄、こんらんニ入込、地へ打埋め申所壱尺或ハ壱尺五寸、所ニ#弐尺三尺も砂ニ打埋、惣代の諸道具、在家等も取ませニ成て埋有を皆追而見出シ、印有分ハ、持主か取、なきハ皆々人の物を我か物とせし成、当寺迚の什物椀等、皆々損申ニ而、寺中に墓所等にかかり有、真福寺ハ長福寺うしろ大薮引廻有之、同真福寺の畠之内ニ流入有之、いたミも少ク寺ハ、何れころびかかり有之、諸道具等も寺に付て流候哉、ちやう椀残り有て取集候。
第四、十九日同刻之時ト成。
一、不思儀成事有之、当寺什物之大くわんす是ハ両寺共、寺内ノ内ニ砂に埋り有之候か、少しもいたミ無之、十二月廿日七ツ時に掘出、大日寺代々ノ什物多流失申よしニ而候。当所ニても寺中ノ中ニても正法寺ハ惣而、本尊等も流失、其外、認道具何に不寄失申候。町中在家方にも少々宛にても何角取集申人も有之、又、人の物を我か物とせし人、数多有よしニ而、越年#明年迄之内、色々のせんき事有て珍敷事共承候。
第五、廿二日五ツ時ニ承ニ而書記者也。
一、十五たんの廻船、十七たんの廻船、数そう日比原在#奥へ入込候而、取士はき浜へ出し、其外に船等ハ政かちのせきかかり、有ハ人々ノ力にて手かきにして浜へかき出しぬ。扠々大変翌年の四、五月迄ハ何角のさわきニ而候。
同廿三日ニ書記者也。真福寺寺内二而書也。
一、真福寺寺内北の角二而、古き茶坪壱ッ、十二月廿三日ニ掘出候。殊之外むかし物と申候。
同日
一、当寺ハ慶長弐年ノ秋建立被仰付、建立#八年ふりニ流失候。
同日
一、真福寺ハ本具寺愛染坊と申旧跡を引直候而、宥真代ニ当寺#一両年も前に建立召されしよし両寺共建立して間もなく流失いたし申候。拙僧事ハ是#二十丁計参、円通寺と申所ニ居申候。宥真の手引ニ而参候。
是#荒/\書記候へと、大変の砺之気分故、筆の立所もわかちかたく候。其上、浜の事ハ見聞の度事ニも書レ又ハ思ひ出度事ニも書記事成。尤前後有之ニ付、如此追而聞事なからも書記者也。後世の人々ハ筆跡文書御覧し候ハハ御一笑の御笑草と可成候へと本#悪筆の事なれば是悲も泣の時代を書記者也
文字糾からす 了簡/\
【別紙】
元文四己未年二月廿四日申上刻
円頓寺ノ玄関ノ二階ノ目板ノ間
鼠ノ巣内#見出ス。即刻拝見
真福寺大#写
円頓寺住持
嘉明
真福寺住持
大 雲
円頓寺は、創立年次不詳であるが、由緒ある寺であり、慶長三年藩主蜂須賀茂成から駅路寺に指定され、有名であったが、大正元年大日寺に合併された。
真福寺は、宍喰の寺町の大日寺と円頓寺の間にあったが、慶長元年、祗園神社を祗園山城の下にあった本具寺内に移し、そのとき祗園神社の別当愛染坊を真福寺と改めて別当寺としたが、大正元年に大日寺と合併した。
大日寺は、由緒古いが、蜂須賀入国のとき寺号を一乗惣持院大日寺と改め真言宗に改宗して寺町に移ったが、前記二か寺と合併し現在に及んでいる。