『朝日町史』によれば、文禄年間に発生した地震で、泉源に異常を生じたものか、湧出が中絶したとする。
(中略)
当然のことながら、この地震の影響は若狭越前にも及んだ。この時の震動で天谷鉱泉の湧出が停止したのであったが、その後、僥倖にも一八〇年ばかりたった天明二年(一七八一)二月一七日に再び湧出してくれたという。
鉱泉は泰澄の発見にかかるといわれ、地下岩盤の隙間から湧出するもので、地震で隙間がふさがれ、また地震で開くということが繰返されたのであろう。
一説では天保八年(一八三七)二月五日だったともいわれる。残念ながら泉温はいくらか低下をみたかという。