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項目 内容
ID J00006713
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/05
和暦 文禄五年閏七月十三日
綱文 文禄五年閏七月十三日(西暦 1596,9,5)
書名 〔アジアの記録〕
本文
太閤様の自慢の、もう一つの事跡は、支那王の使臣を迎へるための大袈裟な準備であつた、朝鮮で起つた戦争を和解するための使臣を来させるやうにしたのは、屡#述べた聖アゴステイーノ(アウガスチン)の不屈と努力とに負ふものである、しかもその同じアゴステイーノがまざまに使役して仕事をさせたことを、国内の多くの見物人等が見積る献身奉仕には殆ど気づかないだらう、おとなしい一基督教徒が神父等に告白したのであるが、六十六箇国の諸侯のあらゆる法廷に追放として喚び出されて、さうした外観の諸道具製作に従事すべきことを申し渡され、衣服と馬とを貰ふだけの報酬が彼等には二千スクーデイ以上に当つたわけで、かくも疲弊し、国の共通の貧困を待つて得たものは、自由或は生命の獲得であつた。言はゞ豊富に飾ること不足と見られんか暴君の御機嫌を損じて殺されるか追放されるかするかも知れない、北京の宮廷が基督の聖典の或る文献を与へるために、そして出来得べくんば、福音の説教に門戸を開くために、平和の談判者内藤殿(既に丹波守であり、後にヂヨヴアンニの基督名で信者になつた人)を其処に急派した、そして基督教の信仰は支那の国内に自由に入つてゐたので、三人の支那要人等を洗礼を希望し、彼等の仕事を約束するやうに導いた使節の職分の如くに、これらの談判者達は使者の本分をよく果したのである、さて支那の使臣等を歓迎するための、かくも豪奢な支度を金に見積りながら日本を羨んだ支那は、太閤様が十万人以上の職人をさういふ悲しみよりはまし(ヽヽ)だといふわけであつた、都は、そこで、建物で大きくなつた、そして御殿はすべて大阪同様であつた、しかし新御殿は宝物即ち残忍に堪へた日本のあらゆる富の展覧場であり、伏見は一種の奇観であつた、そヽり立つ廃楼の数々、さうした間に太閤様の御殿は恰も油絵具のやうに日本人達が巧妙にやつてのけた金粉塗工ばかりでなく、大部分の内部に砕いた金粒をまみれつかせ、驚嘆すべき苦心の飾りをつけた、かくて嶄然たる高楼はその高さの法外のため月見の機械(からくり)といふ異名を取り、そして荘厳なる接見をする大広間は、日本ではどの部屋でもさうである如く、床を二重に蔽ふ畳が千畳も拡がつてゐた。畳といふのは箆棒に高価な繊細極まる織物のやうな物である。して、用意万端整うて一糸乱れず、当の使臣等さへ恰もその展覧物となつたのである。折りしも天帝は恰も地上の神でゝもあるかのやうに輝いたその偉大の数とを見せてゐる太閤様の傲慢を貶すために、日本を踏みつぶしたのである。半時間足らずで悉く壊滅し、征服し、他の廃墟を眺められる邸宅も殆んど残さず、大部分が廃墟であるやうに、震はし焼いたのであつた。さはいへそのことある前に、天にその前兆(後に事実がそれを説明したわけであるが)が現はれたのだつた。彗星に似た火の印象が燃えつゞけて二週間、極めて大きく見えた。それは悲しい告知のやうに、濁つて憂欝だつた。そして、或る日、都にまします天皇が使節団長饗応の名誉のために、宮廷のより立派につくられた食卓につき給ふ時、突如、灰の雨が繁く降り出して、太陽は日蝕の時のやうに暗くなつた。そしてそれと同じ時に、大阪や堺の上にも細かい砂の雨のやうなものが落ちた。それは七月二十二日のことであつたが、丁度その時刻に、僧正マルティネが日本への航海の帆を挙げてマカオの港から抜錨したのであつた。風に吹かれて雨と降つた。さうした夥しい灰や砂が何処から来たものか発見されなかつた。どういふわけでそんなものが降ったかといふことを書いた物もない。しかし、イタリヤに於けるヴェスヴヰオやシチリヤに於けるモンヂベルロ(エトナ)のやうに、日本に数多あつて屡#熔岩の横溢する噴火山の或物から自然に舞上つたものとより外には考へやうがない。これに続いて降った更に一層奇妙な雨の本源な理由を発見することはもつと困難である。その不思議な雨といふのは長い灰色の髪の毛のやうで、極めて細くて筋力の弱い糸の無数といはうか、羊毛のやうに密生した林といはうか、そんな感じのものだつた。それから十五日夜、即ち八月六日の夜、地震が始まつて一ヶ月以上つゞいた。休んだり、又強くなつたりしながら。それが惹起した結果は怖ろしくもまた驚歎すべきであつた。山の襞を裂き、頂からの破片が巨塊となつて雪崩れ落ち、それは世界を深淵とするかと思はれた。そして地面に大きな極めて深い裂け目をつくり、それは再び結合したものもあり、しなかつたものもある。潮流の最も迅い下関海峡では海がすつかり干からびた。ほかでは、豊後の海岸で、無数の大嵐が、颱風に荒れ狂ふ怒涛もかつて此れ程にはなかつたやうに大きな波涛を上げた。そしてその寄せては返す力と飛沫とで陸地内一マイル半も濡らした。それはしばしも止まらなかつたが、同様のことは幾多の城内や各邸内で樹木を、すつかり根こそぎにして、木工に最も適するものとして、その木は束になつて了つた。川々もまた火で沸ぎるやうに奔騰し、多くは海の増水によつてどつと推進されて逆流した。そして、川々以上に、比叡の山の大湖水(琵琶湖)は際限なく溢れた、まつたく、あらゆる岸をこぼれて海のやうに拡大した。都から下(しも)(日本の他の半分の高地及びヂエゾ(エゾ?)と対ひ向つてゐる遠隔の地で起こつたことはわからないが)全般に到る家々の殺戮は解釈出来なかつた。すつかり潰滅した以外の、多くの家々が倒れた所以外の、存立してゐる大都市でも、やはり廃墟のやうで、家の軒は傾いてゐた。それで地震が熄んでからも、屋内で眠ることが出来ず、皆、小屋の内や四阿の下や或は野外に天幕を張つたりしてゐた。そして直立してゐられない程、剰へ投げ出される位に地震がゆつた時、その偉大なる力が彼等に直面したのであつた。そして全日本は洞穴だとして、地下にある心地がし、地獄の間近かにゐるやうにぶるぶる(ヽヽヽヽ)とひどく身顫ひするのを感じたのであつた。死体及び海の溺死者(夥しい材木があつたので、地震が起したあの狂瀾の中に皆その下になつたからである)それから自分の家の下敷になつて殺傷された者、そして、夜起つて半時間続いたあの最初の最もひどいやつにやられたものなど、その数はわからない。伏見のだけは、それが多数であつたこと、すべての死体を悪臭を発する前にやくことが出来ず、海に埋葬するために川に投げこんだのと深い溝に入れたのとあつて、それが山を成したことが記憶されてゐる。太閤様は裸かで逃げながら辛うじて潰屋の下に命を助かつた。そして大地が震ひつヾけた間、住むに危険の少いと思はれる場所にあちこちと軽便極まる仮屋を移し運びながら自分もその下に命の患がなかつた事を喜ぶと同時に、災禍の著しいことを恐れてゐた。さうした間に自分の偉大の減少と周囲の大きな至宝を見ながら、神様が如何に自分一人を譴るために、そうしたおそろしい地震を日本に遣はし給ふたか、その日本には大きな廃墟以上の無比のものがあり、驕慢以上の野蛮があつたことがわかり、ひどい苦痛ではあるが安心を得たかもしれない。都や伏見や大阪にあつた彼の美と偉大さをもつた宮殿はこと#く破損した。そして特にひどかつたのはあの有名な大仏であつた。それは彼が彼自身に献げてその像をすゑた寺で、荘厳さと労力の価値に於いて、日本中に之と匹敵するものはなかつた。しかも、かくも涙ぐましき光景に対して、彼はかの豪奢の日に常になしたるやうに(或はさうであるかのやうに佯つて)日本人には最も共通であり、そして彼には時に持前である所の、内に乱れても外には色を現はしもしなければ、また苦しい言葉をはきもしなかつた。山に登つて発見したことは、たヾ前日には彼の臣たる諸大名達が競うて作り上げたることの出来た宮殿にみちた伏見の御殿とさうした彼の新しい都市であつたのが、今は倒された樹その林とも見ゆるのをかくも近くに見ることで、立つてゐるものとては何にも残らず、月の高楼と言はれた大きな塔も、支那の使臣等を迎へた黄金のかの大広間もその他の建物もどれとして面影を止めなかつた。彼はわづかに溜息をもらして言つた。神様は正当に蔑んで下すつた。何故ならば人間にふさはしからぬことをあまりにも多く自分がしたからである。そして、かう附け加へた。これからはもつとつヽましく建築にももつと適度に心掛けるやうにしなければならぬと。
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
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