太閤様が斯く諸事に成功を収めつヽある間にも、天主は苦悩と恐怖とを以て日本全国を満たし、斯く傲れる彼れの心にも謙譲の美徳を知らしむべき徴を与へ給うた、
一五九五年○文禄、四年、より一五九六年慶長、元年、にかけて、彼れの脊椎骨を犯した憂ふべき疾患は彼れを絶望の状態に陥れた、暫くは快方に向かつたが再び危篤に陥り、たヾ異常なる精神力によつて僅に生命を維持しつヽ、肉体的苦悩を続けて臨終に及んだ、之と前後して恐るべき天変地妖が相次いで起つた、
七月二十二日○慶長元年、六月廿七日、京都と伏見とに終日灰が降つた、又大阪にも茶褐色を帯びた砂が降つた、
八月十五日(○陰七月廿二日)大なる彗星が西方の空に現はれ、約二週間に亘つて其の進行を続けた、世人はこれを凶事の前兆と見做した、
同じ頃また大地震が日本全土を襲ひ、八月三十日夜八時○慶長元年閏、七月七日戌刻、第一回の激震あり、次いで九月四日○閏七月、十二日、夜半第二回の激震があつた、
太閤様の栄華を後世に誇るべき荘麗なる建造物は悉く崩壊し、明使を迎ふる為に新に大阪に営まれた千本柱の宏大なる大建築も崩れた、その他京都の城の諸門も壊れ、七層の高塔も根底より動揺して到底破壊の外なき迄に亀裂を生じた。
更に半月を経て大洪水が近畿地方を襲ひ、近江の湖水氾濫して伏見近傍一帯の地を荒廃せしめた、
第二回目の激震の際太閤様はその妻と共に殿中の大広間に居たが、その時まで飽迄不屈だつた彼れも初めて恐怖を味ひ、自ら厨房に逃れて一杯の水を求めた、重臣等はその周囲に集りこれを励すことに努めた、遂に終夜彼れは彼等に取り巻かれて立ち尽してゐた、翌日未明太閤様は伏見を瞰下す山上に登り、直に新殿を営むべくその山に大いなる平地を作ることを命じた、而して正に天を侮る己が過去の造営物に対して天道(Tento)即ち天主の怒り給ふことの極めて当然なるを認め、爾後は質素なる普請を営むことを誓つた、地震後数ケ月は竹を以て造れる仮屋の内に毎夜眠つた、この時以後彼の心は苦悩と憂欝との占むる所となつた、七百年前高野の僧(le bonze de Coya)○僧空海即、ち弘法大師、の建立せる洛外の堂塔伽藍も一日にして壊滅し、本堂の大仏も顛覆粉砕したが、太閤様は避難の途次この大仏の前を過ぎ、その地上に横はれるを見て曰つた、「なんぞ仏(le Fotoke)の己が像を護ることの斯く力無きや」と即ち弓箭を取りて一矢をその仏像に放つた、なほ仏像千二百体を有せる他の寺院に於てはその中六百までが粉砕した、この天災の為に倒壊せる市中の家屋に至つては殆ど無数である、而も僅か半時間に斯くの如く大なる荒廃が#らされたのである、其上日本全国を通じては数千の犠牲者を出した、未だ聖寵の御合力によつて強められず、又気力を強める感情即ち隣人愛を経験した事の無い不幸なる異教徒等は、涙と悔との中に慰めなく死んだ、吉利支丹は到る処その災害を免れたのであつた、
然るに間もなく太閤様は傲慢のために心惑乱し更に其性激越となつた、而も恐怖と憤激との間に心動揺しつヽあつた彼れを囲繞する者は僧侶であつた、僧侶等は日本国の一切の災害を挙げて悉く吉利支丹の責に帰した、されど尚主権者の心は天主の御手の中にあつた、生来明敏なる彼れは僧侶等に向つて云ふ、「汝等何ぞ愚言を為すや、若し地震にして今初めて我が日本に起りしものならば、或は汝等の言も信ずるに足らう、然るに古来斯かる天変地異は随時随所に起つた、汝等の言は即ち、吉利支丹に対する憎悪偏見に発するものと云ふべきだ」と、
時に適々明使が太閤様を満足せしめなかつたので、一層激昂せる彼れは再び明を侵略せむと企てた、