忠興
閏七月十二日、畿内大地震、子の刻比よりゆり出し、大地裂け、水湧出、京伏見の家々数多ゆり崩じ、死亡の者数を知らず、洛陽大仏の像なども破裂く、就中伏見城内の地震強して、殿屋倒れ崩れ、上臘女房七十三人、中居下女の類五百余人横死し由也、此砌忠興君奥より御立出、女共出る程に、皆々のき候へと被仰候、而、、米田助右衛門と召され、奥方の事其方へ渡す間、宜く相計い候へと被仰置、伏見の御城へ一番に御かけ付被成候、太閤は帯ときひろぎ御出、与一郎早かりしと被仰、御感あり、つ#いて加藤主計頭清正被参候、此時女房達圧死にうたれ、人を見懸て助て給ヽ候と、声々に呼候得共、聞捨にして御通被成候が、不便なる形勢なりと、御物語なり、