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項目 内容
ID J00006332
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/04
和暦 文禄五年閏七月十二日
綱文 文禄五年閏七月十二日(西暦 1596,9,4)
書名 〔瓜生島研究〕 / 「豊府古跡研究 六」
本文
于此有禅僧名安甫、勢家村境内営小庵住之、故其地云安甫小路、然西音寺成無住破壊、浄土寺四世之住馨誉上人修補之、安甫改禅成浄家、令住其寺、於此改名西応寺、名広度山。(豊陽古事談)
「大分市史」には「雉城雑誌」を其まゝに引用してゐる。
然るに「豊陽古事談」には、当寺の創立として、応徳年間に暹覚法師瓜生島に創建の説を記してゐる。他書に見ざる所である。
暹覚法師姓壬生氏、豊後速見郡大神郷人、承保二年自祝髪………応徳中還故里、創満願寺于川崎村、西応寺于恵悦崎、大分郡笠和、郷瓜生島、薬王寺于蓑崎。(豊陽古事談、巻中)
更に当寺を訪ねて「由緒沿革」なるものについて見るに、
一、本尊 阿弥陀如来
一、由緒 伝説に依るに当山の本尊仏は元瓜生島にあり慶長元年閏七月十六日全島海中に陥没せし時浜辺に打上りたる阿弥陀如来を安置し、当山の基をなせりと、以後記録なし。
一、沿革 慶長四年開山馨誉上人(浄土寺七代)本堂建築す、次で安政地震中諦誉上人大修繕をなし、以て現今に至る。
とある。
当山の沿革果して瓜生島に在ったものか、否かの点、又西王寺が西音寺となり、更に西応寺となった時期等、諸説に一致点を見出さないことを遺憾とするが、これは尚ほ後日の研究に譲るとして、今尚ほ伝説に著しき当山の本尊、阿弥陀如来のことを窮めたいと思ふ。
「雉城雑誌」に『永禄の水災に殿宇傾壊して』云々といひ、「国志」に『笠和郷勢家村沖浜に在り、慶長災後本尊儼在して、風雨に銷磨せらる』云々といふは、恐らく両書共に当山が最初瓜生島に在ったことをいったのではあるまい。然るに植樹氏所蔵地図に、西応寺を記入してあることは前掲「豊陽古事談」と一致して居るが、果して何れであらうか。
伝説に当山の本尊には海中に漂沈してゐたゝめ蛎が附着して居るといはれて居る。
「当山由緒沿革」に本尊像は慶長水災の為め瓜生島にあったものが、浜辺に打上げられたことを載せて居るのは、全く同書の示す如く伝説を其まゝに根拠としたものであらう。
本尊阿弥陀仏如来或曰、阿弥陀弘法大師作、相伝フ、此ノ尊像ハ旧府中今津留邑ノ地天神島ニ阿弥陀寺ト云ルアリ、文禄丙申ノ洪涛ニ漂没ス、其後此尊像体夜々光明ヲ放ツ、漁人怪ミ網ヲ入レテ是ヲ取上当寺ニ収ムト云リ。
(雉城雑誌)
の意見も亦今日残って居ることは、複雑な問題を含むものといはねばならぬ。
此処に賽し本尊阿弥陀如来像を拝するに、木彫立像台坐を除いて高さ約三尺。足、手、右袖は中古補修したるものゝ様であるが、其他は殆んど文字通り銷磨甚しく顔貌等は殆んど其の相好を認むることが世来ない位になって居る。蛎の痕跡は認め得ないが確かに古き年代を有し、曽つては海水に漂没したといふ歴史を裏書するに十分なものといひたい。
然し思ふに本尊像は、今津留のものでなく、瓜生島か但しは現在の地かに在った西応寺に慶長前に安置してあったものが、同水災の為めに、風雨に銷磨され、後安甫の時に再び本尊として礼拝することになったものであらう。
境内には開山馨誉上人の碑あり、其の背後には幸松家累代の墓碑列立、当寺と幸松家の関係の深きことを思はせられる。
尚庫裏内安置の住吉小祠に就いては、別項に記述したから、此には一切省略する。
海門寺
別府市の海門寺浜に永平寺直末の曹洞宗に属する禅刹がある。
抑々久光山海門寺(後に宝生山海門寺と改む)は人皇八十八代、後深草天皇の御宇建久三年の創立にして元久光島にあり、久光島は別府湾の西南隅に方り、瓜生島と並び風光佳絶、二島合せて一千有余戸の部落をなし、島民淳朴、海門寺は久光島にありて殿堂荘厳を極めつゝありしが、人皇百六代陽成天皇の御宇慶長元年閏七月十二日地震海嘯のために瓜生島は終に海底に陥没したり、続いて翌二年七月廿九日亦大地震ありて鶴見岳破烈し、洪水氾濫、大河を成し海に注ぐに臨みて、朝見の荘に流失したり、此時久光島も忽ち崩壊して又々海中に沈滅して、島影跡なきに至る、此に依りて吾海門寺も久光島と共に、一朝水泡に化するの不幸に遭遇するに至りぬ。
と当山由来記に「豊府最要記」を原拠として載せてある。又「速見郡史」古くは「国志」等にも殆んど同意見を記して居る。
久光島は瓜生島の西に接し、地図には渡八町と註してある。瓜生島低下の翌年の水災に沈滅した上知ることが出来る。瓜生島と久光島との関係の浅からざるを以って、当山に於ては毎年旧七月十六日を期し、瓜生・久光両島の災害者追弔の為めに、回向袋の志納によって、大施餓鬼を執行して居る。
称名寺
瓜生島に称名寺たる寺院があったことが、前掲幸松氏記録中に見える。此の寺の開基に就ては同じく幸松氏記録に、
文明十六年ノ記曰、讃岐国羽重村三治之次男三次郎、京師ニ至リテ僧ト成号済念、三月此島ニ来ル、依テ寺ヲ立一向山称名寺ト言。
これに依れば、山号を一向山といふのであるから、浄土真宗の寺なることが知られる。然るに「雉城雑誌」では、瓜生島に在った称名寺は、現在大分市長池町なる真宗善巧寺塔中の称名寺であるとし、且つ島津勝久追福の為に建立されたものとして、幸松氏記録の説より大分後のことゝなってゐる。
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
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