偖て「国志」「雉城雑誌」には、慶長災後、島より此方に寺を移し、寺号を霊雲寺と改めたことを述べて居るのに対して、「市史」に於ては沖ノ浜に移して寺号を改め、慶長災後更に今の処に移した様に掲げて居る。これも亦やゝ前書等と意見を異にして居るところで、此辺甚だ後学者をして躊躇せしむるものが多々あるとせねばならぬ。
寺記に、
霊雲寺儀去年九月浜市出火ノ節、寺観音堂迄不残焼失仕難儀仕候、殊ニ寺内儀数度之浪ニ打崩申候ニ付、此度南之山際ニ寺ヲ立申度願候ヘバ、願通リ被仰候
元禄十七申年十月
此時御奉行 伴 是兵衛
佐藤与兵衛
御代官 山本七左衛門
の一節を挙げて居る。是によると、現在の位置に寺を移す前には、浜の市附近に寺地の在ったことを知るのである。即ち浜の市附近に於ては数度の浪に被害あり、加ふるに元禄十六年九月には出火の為めに諸堂烏有に帰し、止むなく奉行に願って翌年十月に今の地に移転を試みたのである。
これから考へると、当山は前記の一、二の問題外#に新しく浜の市にあった事実を附加せねばならぬことになるのである。
又現在の寺域に接して居る南側丘陵一帯は、古来垂井山と称して、此処が旧垂井寺の旧址であると口碑にも称せられて居り、丘陵の到るところに塔の破片等を今尚発掘することの多々あるのを見れば、此説も亦否み難いことゝせねばならぬ。さすれば又こゝに垂井寺址について一説を附加ふることになる。
結局霊雲寺所在の問題は、瓜生島にありし説と、瓜生島に移転したる説と、浜の市にあったことゝ、垂井山にあったことゝの四説を比較講究せねばならぬのである。
過去帳の一部を見ると、
文永元年三月廿日
垂井中興勧進願仏上人、天台宗垂井寺中興、大鐘諸堂建立也、
明徳元年八月八日
一世禅開山独芳清曇大和尚 塔所不分明也
貞享三年寅十一月三日
三十一世当寺檀家中興物外芸和尚、顕密禅大山寺住、御当寺中興云々、
これは当寺歴代中の中興住僧であるが、尚歴代住持等に就ては後に譲らねばならぬ。兎も角も当寺が瓜生島と関係あることは面白い。尚ほ詳細は将来の研究を俟つことにして、同寺の観音と鐘のことを挙げよう。
観世音菩薩縁起文
抑モ当寺本尊観世音菩薩出現ノ昔ヲ尋ヌレバ頃ハ文永元年三月廿日大友頼泰公之時代某之勧請ニシテ今ヲ去ルコト六百五十有余年也時ニ生石ニ阿部又兵衛ナル者漁猟ヲ以テ家業トシ常ニ観音ヲ念ジテ信仰セリ比ハ瓜生島海嘯ニ没セシ慶長元年七月朔日ヨリ七十余年ヲ経テ網ヲ海中ニ降シ手綱ヲ引キ上ゲシニ魚ハ一鱗モナク半鐘ト観世音ノミ也尊像光ヲ放チテ網ニ上り給ヒシ時ハ延宝八年十二月三日也漁父頓テ観世音ト半鐘トヲ舟ニ載セ我ガ家ニ帰リ洵ニ不思議ナルヤ一夜正夢ノ告ゲニヨリ当寺ヘ奉納安置セラレシ……。
これは現住河合舜岳師が古来の記録によって書写されたものであるが、今旧記録はなくなって居る。観音像が瓜生島事変の際、海中に渫はれて後一漁夫の網によって上げられたことは、地方の口碑にも伝って居ることで、今寺域内南側に北面して建てる観音堂に安置されて居る。十三年に一度の開帳ある許りで、秘仏として一般には拝することを許されて居ない。開帳の時は勿論、平常も参詣者夥しく火防、除難の仏として霊験あらたかなるを以て名高い。二重厨子内の像は蓮台上に坐せる木像で、総高一尺五寸余の正観音、宝冠を戴き、相好極めて端麗、船形の光背には鏡を鏤め、殆んど全てが金泥塗を施してあるが、これは中古手を加へたものであることは明かである。
鐘については寺記中に、
公辺向品目 文化六年三月日
延宝八庚申十二月三日朝、生石浦ニテ又兵衛ト申者網打ニ罷出釣鐘見付出取上申候、其段申上候得ハ又兵衛ニ被下置候霊雲寺ニ上ゲ申度奉願候得バ、願之通リ被仰付候、同寺始而釣鐘出来、
此時御奉行 吉田平兵衛
岩下五太夫
御代官 平野九郎兵衛
此の文書に於ては同釣鐘は、元々いづれの寺のものなりしかを明にしてないが、現在の梵鐘の銘によれば慶長の時巨浪の為垂井寺の鐘も亦海中に圧沈し、其後延宝中、漁人によって引揚げたことを認めて居る。観音像、鐘はいづれも慶長水災の為めに被害を蒙ったことを物語るものである。なほ問題は寺が瓜生島にあったか否かといふことが残って居る。
西応寺、勢家住吉神社の東南方に塀を廻らし、東面して、本堂、庫裏あり、山号を広度山といひ、浄土宗、鎮西派に属し、本尊阿弥陀如来である。
雑志曰、当寺ハ浄土宗鎮西派ニシテ浄土寺ノ末也、其始ハ西音寺ト呼ブ、禅宗ノ支院、ソノ開基詳ナラス、文禄ノ水災ニ殿宇傾壊シテ住侶モナク廃寺ト成、唯本尊弥陀仏儼然トシテ有、南ノタメニ銷磨セラレシヲ庵甫ト云僧アリテ小庵ヲ結ビ住ス、人是ヨリ此横小路ヲ安甫ノ小路ト号、慶長四、浄止寺々記、三年ニ作、年浄土寺四世馨誉再建シテ、庵甫ヲ以住侶トシ西王寺ト改メ馨誉ヲ以テ開基トス、其後寛永十五年浄土寺信誉今ノ名ニ改ム、以上、寺記、。(雉城雑誌)在笠和郷勢家村沖浜、号広度山、慶長災後、惟本尊弥陀仏像儼在、為風雨所銷磨、四年、浄土寺四世馨誉上人立堂安之、使庵甫住焉。(豊後国志)