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項目 内容
ID J00006330
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/04
和暦 文禄五年閏七月十二日
綱文 文禄五年閏七月十二日(西暦 1596,9,4)
書名 〔瓜生島研究〕 / 「豊府古跡研究 六」
本文
然りとすれば、瓜生島の古地図に明かに住吉社として載せられて居るのは何故であらうか。此に於て次の疑問が起る訳である。
一、瓜生島の住吉社と勢家の住吉社とは、前身と後身の関係であるか否か。
二、若しもさうした関係であるとしたならば、何時勢家の地に祀られる様になったか。
三、若しこの二社全く別のものとしたならば、文献に屡々現はれる住吉社は果して何れであらうか。
此の疑問に対して、「豊後国志」や「豊府紀聞」のみにては到底解決することは出来ない。吾等は今これを解決すべき適確なる史料のないことを遺憾に思ふものである。(「豊後史跡考」等はすべて「豊後国志」に従ってゐるが、「国志」の説は前述の通り「紀聞」の曲解と考へられる。(中略)
春日社境内天神社、瓜生島地図に、幸松氏の埴屋敷附近、に三社天神といふ社が記されてある、が、現在春日神社境内東側に鎮座の天神社はその後身であると伝へ、記録類に載せられてある。
沖浜之鎮守天神、漂流而到于勢家之境内、因勢家之名主収之、以再建諸春日祠之境内。(豊府紀聞、巻四)
瓜生島天神(割書)祠有島之地、洪波後流来勢家村地、即安置春日之境内。(豊陽古事談、巻下)
天神社 瓜生島鎮守ニテ候処、慶長元年申七月津波之節、春日宮エ打上ケ申候。(寒田家所蔵記録)
此の社は古老は酢屋の天神(ヽヽヽヽヽ)と称し、先年迄は酢屋即ち幸松家から祭祠の費用等を献上して居たさうである。念のため明細帳を見ると、次の如くある。
天神社  祭神 菅原神
由緒   元瓜生島鎮座ノ処、慶長年中狂浪ノ為ニ沈没シ、神像此浜ニ現出ス、依テ此地ニ鎮座ス、
神殿   竪四尺七寸横三尺六寸
拝殿   堅二間二尺横二間(中略)
威徳寺
市内浜町にあって、境内に欝蒼として枝幹の蟠って居る老松によって名高い寺で、浄土真宗本派に属し瓜生山と号する。古地図に見る瓜生島道場は当寺の前身で、慶長水災の際、堂宇尽く海中に没した後現位置に再建今日に及ぶ、頗る数奇の運命におかれてゐるのである。(中略)
又由来書によれば、第二世道正は義正坊の弟で、実如上人に給仕して、弥陀の尊像に印証を願ひ、御文の写しを賜って帰国し本願の弘通につとめ、第三世道空、第四世道専は元亀二年の大阪一向宗変の為め門徒四十一人と共に上阪し顕如上人に穀物を献じ、帰国に際しては上人御自筆の請取を所持、第五世道善を経て第六世周安の時(「豊府紀聞」等には五世とする)、文禄丙申の年で瓜生島災害に出会したのである。
閏七月十二日ノ#時、大地震動スルニ海上澎湃トナリテ潮水奔揚トワシリアカリテ、瓜生島ノ屋宇若干ク漂没シテ島ハ八分ハ海トナリ、其後ハ島漸々ニ崩レテ海路トナレリ、身命ヲ免ルヽ者纔ナリシカバ、波動シツマリテ迎舟に依テ沖浜ニウツリケル。(威徳寺由来書)
此の時本尊、御文の写、六宇名号、顕如上人の請取書等はいづれも流失したが、翌朝になって本尊と、六字の名号の一片と、御文の一部分は今の仏崎の海辺に探し得、府主早川主馬首の労によって勢家邑の東南の地を択んで仮庵を営み、慶長八年上洛して寺号木仏を願ひ準如上人より免された。即ち威徳寺の号は此の時より起ったものと考ふべきである。(中略)
霊雲寺
市内生石町の西大分駅南側、丘陵の直下に東面せる伽藍、庫裏其他の堂宇数棟を有する。当寺は旧名を垂井寺と称してゐた。垂井寺といへば豊府古刹の一つとして、是非共吾等の研究をせねばむらぬものであるが故に、巨細の問題は後章に譲るとして、今はたゞ此の垂井寺、霊雲寺が、瓜生島と如何なる関係にあったかを、目の前の問題として考へて見たいと思ふ。
天徳元年、天暦十一年、十月改元也、丁巳創瓜生山垂井寺于大分郡瓜生島。
(豊陽古事談)
即ち今を去る九百七十五年前空也上人、偶々豊州の笠和郷瓜生島に来錫したが、此島はいづれも鹸水で、飲料水のないため島民の苦痛は一通りでなかった。上人は始めて同島に井戸を穿って、清潔甘冷の水を得たので、#に蘭若を創立して瓜生山垂井寺といふものが出来たといふのである。
寺旧在沖之浜、慶長災後移于此、更称霊雲寺、(豊後国志)
「国志」は亦当山の旧沖ノ浜にあったことを認めて居る。然し此に沖ノ浜にあったといふのは、垂井寺創立当時の問題であるか、それとも慶長前暫くこゝにあったといふのであるか、文意が本文によっては不分明であるといはねばならぬ。
「雉城雑誌」は「国志」と同一の意見で、文も亦殆んど同一である。「大分市史」に於ては、
文永年中大友兵庫頭頼泰の創始にして、………後沖の浜に移して寺号を改め、慶長津浪後再び此の地に移りたりと。
として、中古当山は沖ノ浜に移されたものゝ様に明瞭解釈して居る。即ち問題は、
一、元来沖ノ浜にあったものか。
二、中古沖ノ浜に移したものであるか。
といふことになる。
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
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