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項目 内容
ID J00006329
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/04
和暦 文禄五年閏七月十二日
綱文 文禄五年閏七月十二日(西暦 1596,9,4)
書名 〔瓜生島研究〕 / 「豊府古跡研究 六」
本文
かうした血塗モチーフを有する陥没伝説は恐らく「今昔物語」に採録した『嫗日ごとに卒塔婆に血の付くを見る語』(巻十第三十六章にある。「宇治拾遺物語」には『唐卒都婆に血つくる事』といふ題で載ってゐる)等を基として全国的に拡まり瓜生島の如き特異な事情ある場所に附着して語り伝へられたものではなからうか。而して「今昔物語」の此の話の出典は「捜神記」等にあるといふことだから、恐らく支那種であらう。(かうした話が地方に触れ廻られた伝播者としては、中世の京下りの神人や遊行巫子(あるきみこ)等の力が働いたことゝ思ふ。)
尚瓜生島の地名伝説や沈没当時の神異伝説等は前項に出た所であるから、此にはすべて省略しよう。
瓜生島関係遺跡
嘗て瓜生島一町十二村の地には、前述の如く四社三道場が建立され、島民の信仰をあつめて居たが、一朝海底に没するに及んで、それ等の社寺も亦島と運命を共にしなければならなかった。其後島民にして難を遁れて本土に移住した人達に依って、漸次さうした社寺古跡が本土に復興される様になり、以て現在に及ぶものが尠くない。吾等はさうした種類の遺跡として、神祠に浜町蛭子社・住吉神社・春日社内天神社を、仏院に威徳寺・西応寺・称名寺を主としてその他勝久塚・霊雲寺・海門寺等に就て略述しようといふのである。
沖浜蛭子社
現在の大分市大字勢家沖ノ浜の町筋を北に海岸に出ると、丁度町端れ西側の海岸に、一廓の神社がある。これが浜町鎮守の村社蛭子社(又恵美須社にも作る)で、八重事代主命を祭神とする。此の社地は大正五年頃に移転したもので、それ以前は現在よりもずっと南で、現に同町平松重太郎氏の宅地となって居る場所に鎮座されてあったといふ。而して更に遡って、勢家の地に勧請せられない以前は、即ち瓜生島鎮守の神社であったのである。
此の神祠を島に勧請した由来は詳かでないが、地図に依れば、島の東部浜村内に在った様であるが、「恵美須神社縁起」(明治二十八年写)には、沖ノ浜町の北町に在ったとしてゐる。
其町(沖ノ浜町)東西に縦し南北に並び、三筋の町を為す所謂南本町、中裏町、北を新町といひ、農工商漁人之に住す、恵美須神社其の新町に斎ひ鎮ありて、島人等が産土神と尊崇奉り………。
何れにせよ、前述の如く此の島沈没の時には、此の社の神像に朱を塗った為にかうした異変が起ったのであるといふ伝説を有して居る。
島の沈没後、この社を再び祀るに至ったのは、災後の勢家の地に神像が流れ寄ったので、村民祠を建てゝこれを斎き祀ったといはれて居る。而してその復興の年は災後直後であるとも、又は正保年間とも慶安年間とも伝へて、明確なことは判らない。
蛭子祠 雑志曰、相伝、瓜生島中所祭ノ神ニシテ、慶安四年再営ノ棟札及ビ縁起等漁師日名子氏ノ家ニ収ム、或云、正保二年祭ル処ニシテ、神体ハ利光自休ノ作也トモ云ヘリ。(雉城雑誌、巻八)
瓜生島一時に沈没して#底となり、其時恵美須の神璽勢家の海岸に漂着す、勢家村の名主此由を府主早川主馬首に告げ、即今の沖ノ浜に殿宇を創立し、其神璽を鎮斎して之を祭り、別して漁人等は海幸を得んがために神徳を仰ぎ、厚く敬ひ尊み奉る。(恵美須神社縁起)
「雉城雑誌」に所謂慶安四年の棟札及びその当時の縁起なるものは現伝しないらしい。(中略)
住吉神社
現在の沖ノ浜町の南、仙石橋の西詰に郷社住吉神社がある。この社が元瓜生島松崎村に鎮座せる住吉社の後身であるといはれる。
住吉祠 在笠和郷勢家村地方沖浜、此祠旧在瓜生島、歴年最久、慶長之災湮滅、寛永二年更立祠于此。(豊後国志、巻四)
若し然りとせば、此の神を瓜生島に勧請したのは随分古く、「豊陽古事談」の記す所は、既に陽成天皇の朝元慶四年(一〇五二年前)に創立があるといふ。即ち、
同(元慶)四年庚子、建住吉祠于沖之浜。
而してこれを勧請したのは、僧正遍昭の弟子慶朝といふ僧で、偶々西遊の途次此の島に寓して、日頃尊信せる住吉三神を祭ったといふのであるが、余りに遼遠にして、その信偽判定し難い。尚当社の滝山社司の蔵する「住吉社御祭礼記録」(明治六年旧記を基として写せるもの)には、『往古大友二十代修理太夫義鑑公天文元壬辰年宮殿を造営し玉ひ、同六月祭礼の式初め玉ふ』として、近古の奉祀なるかの如く記して居る。果して如何にや。且つ此の記録には、此の住吉社が元瓜生島に在ったことは毫も記してない。殊に「豊府紀聞」には次の如く記されてある。
豊府城北沖浜住吉宮者、国人伝説、往昔摂州住吉宮之勧請、而社廟#然而不違祭祀時、所然罹天正兵乱、荒廃瑞籬破壊華表、其宮地為阡陌、或営民家、故其地之民人恐壊朽住吉神像、営禿倉安奉之、然無知其神名者、既而有歳、時慶長年中沖浜町住河田氏助左衛門語西応寺住侶曰、我旧居瓜生島、前歳免洪涛之急難、今住沖浜、予之居地境内於薮林中有禿倉、名一之宮、正雖其一宮為旧地、今既民屋之際而非浄境、是故請使一之宮遷西応寺之境内、住侶応之、即営禿倉於西応蘭若之境内成遷宮、今一宮是也。(豊府紀聞、巻七)
此の文にいふ沖浜はすべて新沖ノ浜で、勢家地内である。今此の文を読んで気付く点を挙げると、(一)社は一時盛大であったが、天正兵乱(ヽヽヽヽ)、(慶長水災以前)に荒廃し、名もなき小祠となったこと、(二)元瓜生島に住居せし河田氏が慶長水災後勢家の新沖ノ浜(ヽヽヽヽ)に遷った処、その新宅の地内に此の小祠を発見し、住吉神社の址と知ったこと、(三)此の祠を此の侭にして置くのは恐ありとて、西応寺住侶と相談して西応寺内に遷したこと。即ち此の文中には何等佳吉社が瓜生島から遷されたといふ意味はないのである。然るに「豊後国志」の著者唐橋世斎は此の文を読んで、河田氏が瓜生島より遷れる時、住吉社をも改めて西応寺境内に遷祀したと解したと見え、「紀聞」の上欄に、『瓜生島住吉地震海溢之後遷西応寺』と註記し(大分図書館本)、採って以て「国志」に編み込んだ訳である。であるから、前記「国志」の元瓜生島に在りとする説は根拠なき説である。
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
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