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項目 内容
ID J00006328
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/04
和暦 文禄五年閏七月十二日
綱文 文禄五年閏七月十二日(西暦 1596,9,4)
書名 〔瓜生島研究〕 / 「豊府古跡研究 六」
本文
幸松左門丸信重は、幸松家が一旦瓜生島低下と共に覆没したるを再興したる人である。信重は災後頗る零落したが浄土寺の住侶馨誉上人の救助を受け漸次家運の再興を見たのである。信重の前代は幸松系図に初代幸松仁右衛門兼直と記され、その註に、
一年大友義統君当上洛之時被擢代官供奉、従太閤秀吉公於泉州堺之浜賜米五百俵於大友侯、石田治部少輔奉行之………奉契書其契中書大友之姓名高於石田、於此石田与幸松及争論、訟太閤秀吉公、太閤使山口玄蕃允守府城、各出於旧館離散于東西、此時託居於瓜生島渾于民間復不仕也、同四年福原右馬助直高主府城、為石田三成之婿………憤而益避世乎………義統君従中国興師来与黒田如水戦于石垣原、兼直………夫君臣以義合、義不在此則不仕………臼杵君稲葉典通頻招而為師友之交、兼直亦能謡舞………某年剃髪号休自、嘗好連歌………寛永十四年卒謚敬誉休白信士。
二代幸松与右衛門藤原信重
母某妙栄娠而漸有声、慶長元丙申年正月四日於瓜生島産、信重同年閏七月十二日大震地割山崩亦滄海鳴動、畏之而避干世家(せいけ)邑、忽焉大波起洋々為海、同七年竹中伊豆守重隆君移民家於今之府中、此時吾族移于堀河町(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)、蓋浩涛之、後数年託、、居於世、家邑、昔蒋山万寿寺也為九州第一之伽藍天正之兵火悉灰塵、其時衆僧携於大仏之頭臚而去、信重蔵之己久矣、寛永八年丹山再建之時送之、亦屡参于丹山師、或時乞異称、答之曰、
幸松氏信重頃就予需異赤諱之、云休意字之云敬心所謂格物致知也、順敬正心誠意也、順敬脩身斉家治国平天下也順敬、敬者一心之主宰万事之根本矣、聊賦一偈証二大字義云、
忽参主一無適意  自得逍遥絶喜憂
此是精神貴礼本  直随万境実能幽
今#寛永戊寅仲秋吉辰
野釈丹山叟宗昆漫書
嘗好連歌往来于東井坊寛佐法印、
寛永九年十一月廿五日
賦何人連歌
浦風にさくや冬木も波の花   信重
雪をあさ戸のこもり江の里   寛佐
承応二癸巳年五月七日(仙石橋渡初めのことなり、前に出づ。略す)
貞享二乙丑年七月廿三日卒、謚本法幸与居士。
慶長二酉年二月福原右馬助直高入国の節、駄原浄土寺の馨誉上人が、幸松家を沖ノ浜漁長として復興の歎願をなし福原直高より秀吉に伺出の上許可せられたる由の記録が幸松家文書の中に見えた。幸松嘉策氏の談によれば、幸松信重は馨誉上人の扶助を受くること甚大であったので、其の後上人が西応寺を開くや其の檀越となり、爾後幸松本家の当主の墓は総て西応寺にある由である。筆者は一日西応寺なる寺松家の墓を訪れた。本堂前面の墓地内東向に歴代の墓が並立してゐる、初代と二代は同一の墓碑に納められてゐる。石は花岡石、台石高さ八寸、穂長四尺七寸、表面の文字は、中央に、『一法□□(不明)休白信士』右に、本法幸誉信士』左に信女の法号がある。
瓜生島陥没伝説に就て 兎に角周回三里もある島が一朝にして海底に沈没して了ったのであるから、一寸不思議にも感ぜられる訳で、其処に色々と伝説を産むことになる。それで前述の如く、或は神罰に依るとか、但しは仏堂を島に建てたからだとか、色々に伝へられて居るが、此の島の沈没に就て、最も当地方の人口に膾炙して居るのは次の様な話である。
島には恵比須の社があって、島民の言伝へとして、その神像の顔が赤くなると、島が波間に沈むと伝へられてあった。そして朝夕島民はその社に詣でゝ無事を祈って居た。然るに慶長元年七月或日、一人の島民が、神像の顔の真赤に染まってゐるのを見て、大いに驚き、早速村々に告げて一騒ぎをした。或者は船を出して本土に遁れ様とし、或者は予言を信じないで、島に留まらうとした。その時島に住む真斉といふ按摩は、皆の周章て騒ぐのを見て、苦々しく思ひ、『神像の顔の赤くなったのは、俺が紅殻を塗ったからだ』と言ひふらした。島民は半信半疑で去就に迷ってゐると、やがて海が騒しくなり、……
一夜の内に全く島は海中に没して了った。(豊後伝説集)かうした伝説は可成古くからあったと見えて、既に幸松氏記録にも見えて居る。
慶長元年……然ルニ六月廿九日柞原社御祓会島中参詣ス、此時申引村之医師加藤良斎ト言有リ、此島今日休日、潮ヲ竹ノ筒ニ入テ御祓会浜ノ市ニ詣テ是ヲ奉幣ス、良斎是ヲ見テ大ニ託言曰、神ハ心也、何ゾ其所詣不及、神ニ不思議無キ也、其故ハ此島皆人共言伝ヲ以恐レトスルハ何故ゾヤ、此島ニ寺ヲ建ハ此島崩ルト言説、次ニハ蛭子之顔赤ク成ル時ハ此島崩ルトノ寓言不可信、………我今為島人其虚実ヲ示サントテ、蛭子社ニ往古ヨリ祭リ奉ル御神体ノ蛭子様ノ御顔ニ丹粉ヲ塗テ真赤ニ成シ、高笑シテ村中ノ老若ヲ罵ケリ(次に島沈没の記事あり)。
此の伝説の主要部分は、人をあざむかうとした悪戯が、遂に大災害を引起して、島が陥没したといふ所にあるが、これに似た伝説は他にもある。而もその血塗モチーフ(ヽヽヽヽヽヽ)を同じくして居る。一例として阿波小松島港外のお亀磯の伝説がそれである。嘗て喜田貞吉博士が筆者に書を寄せられて指示された処に依ると、此の岩礁は昔はお亀千軒といふ繁昌な漁村を有する島であったが、狛犬の目(又は石地蔵の目ともいふ)を赤く塗った悪戯から一夜に陥没して暗礁を止めたと伝へるさうである。菊池寛の戯曲の「亡兆」といふのは、或は此の島の伝説を取材したものであらう。又既に「雉城雑誌」の著者の引用せる如く、「本朝故事因縁集」薩州野間御崎明神の条に、唐土万里島の陥没の故事がある。
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
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