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項目 内容
ID J00006327
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/04
和暦 文禄五年閏七月十二日
綱文 文禄五年閏七月十二日(西暦 1596,9,4)
書名 〔瓜生島研究〕 / 「豊府古跡研究 六」
本文
地震の時日 さて慶長元年の地震津浪のあった日時は大森博士の九日説は前掲の論文に見えてゐるが、併し多くの記録を点検すれば、その前月にも地震はあり、閏七月は初旬から引き続きの震動で、結局十二日に至り総決算的に地震津浪瓜生島低下といふことになったと考へられる。全く十二日が代表的な地震の日である。前掲記録の外一二の傍証をあげると、群書類従の紀行部「玄与日記」に、
夫よりさがの関迄御着被成候、去七月十二日(ヽヽヽ)の地震の時かみの関と申浦里は大波にひかれて家かまともなく、命を失ふもの数を知らず、哀なる事どもなり。
と見えるかみの関(ヽヽヽヽ)とは、佐賀関の上浦の別名である。又「佐賀関史」に、
(注、「史料」第一巻五九七頁下十行目以下と同文につき省略)
ともある。大森博士は亀川の幸松嘉作氏(後に記す幸松家の主人)に、『伏見の大地震が十二日であるから、豊後の地震は九日頃とするが当然である、三日位の間隔を置いて波及を考へねば説明が成立たぬ』と話されたとのことであるが、十二日以前からの引続いた地震で、此の日高潮に達したと説明は出来ぬだらうか、吾々は記録の方面から考へてどうも十二日と論断したいのである。
災後の手当 抑々豊府の地は天正十四年薩軍乱入の兵焚に罹り奪掠に遭ひてより、年を経ること僅に八年である。此の八年間は大友義統の治世ではあつたが、義統は府内城の天正落城後は直に秀吉に随って島津征討に出軍し、引きつゞき征韓の役に服し、韓地に於て封土没収の悲報に接し家臣離散したる程である。其の治世中に於ては府内城の修築等は思ひもよらず当時府内は城塁街衢唯廃墟のみ、居民流離して惨状は目もあてられなかった。文禄二・三年の検地の際も山口玄蕃頭は駄原浄土寺を其本陣とした。かゝる有様の文禄三年十月早川主馬首長敏が府内城主に任じ入府したのである。長敏は郡内高田の荘家島に寓し金銀を与へて市民を呼び、上野丘なる大友家形の修理を命じ、応急の工僅かに成りて後府内に移り住んだ。大に人民を撫育して府内やゝ生気を発せんとする折柄、恰も此慶長元年の災厄に遭遇した、上下の困惑は想察に余りがある。
於是沖浜町流免死之人、漸々到于彼地来此境、雖然皆裸程無衣且飢食、故同十三日昧爽求親属及交隣之好、来于勢家村之民家、於是時勢家之民人育之、又勢家名主往于府城日此事、於時城主早川主馬首憐愍其民人飢裸之難、即賜衣布米銭以扶持之、於勢家境内屡結茅屋使居之、再名沖浜町。(豊府紀聞、巻四)
かくして出来たのが今の沖ノ浜町で、当時はもとの瓜生島のものに対して新の字を冠らせて呼んでゐた様である。猶避難民は津留・萩原・三佐等にも茅屋を結んで移り住んだことが、諸記録に散見してゐる。其他神社仏閣に関することは後章に項を立てゝ之を詳述するから、#にては省略する。
瓜生島と幸松家 相当年輩の人は市内堀川町に酢屋と称する豪家のあったことを記憶するであらう。是が即ち歴代瓜生島の島長であったところの幸松家である。府内城主日根野織部正吉明の承応二年五月七日、造立の功成った仙石橋(此時土橋を改めて木橋となす)の渡初を堀川町長幸松与右衛門が、子孫一属及僮僕奴碑等凡八十余人を率ゐて行ったことは有名なことである。同家譜に交易を以て産をなすとある。山弥長者、竹中侯あたりと連絡あり、外国貿易でもやったのかもしれぬ。幸松家は今数家あり、直系は今も堀川に住居してゐる。#に瓜生島低下前後までの同家のことを記すは、同島の事情を闡明する上に必要のことゝ考へたからである。以下幸松氏所蔵記録「瓜生島崩の由来」の要点をとった。この書は明治初年に内藤平四郎といふ人が、同家の古記を基として組織的に編んだものであるが、内藤氏は平田流の国学者であったと見えて、その意見往々独断に失する点なきにしもあらず
一、幸松氏の遠祖は宇那(のきな)宿弥に出づ。景行天皇十二年始めて豊国造に任ず。
一、宇那宿弥の子川辺宿弥十三代の孫和仁多気馬(わにのたけま)京に在りて物部守屋に属し仏寺を焼き、其後皇子の乱に討死す。
一、更にそれより十五代の孫埴久満足(はにのくまたり)養老三年碩田の大領に任じ、直野山に那岐浪の神を祀り、久満寺の神社上称す。
一、五代の孫埴広薫(ひろか)元慶五年跡部島を賜はり、権領に任ず。
一、豊後国司藤原忠輔の頃、埴三郎喜平あり、強力剣法衆に勝れたといふ。
一、建久七年大友能直入国、文禄元年十二月廿五日跡部島地頭幸松左膳重忠に旧地を賜ふ。
一、大友六代貞宗の時、延元元年二月十一日足利尊氏跡部島の恵悦崎に着船、島長瓜生兵衛尉貞村(幸松氏の祖)出迎、此の時田原・利根・竹中・吉弘・清田・田口・松岡・日吉・麻生・俣見・亀山・臼杵・大神の各氏出迎へたといふ。尊氏は大友氏の別館鶴の館に入る。
一、文禄二年大友氏闕国、山口玄蕃頭豊後検地、瓜生島長幸松丹次郎勝忠は大友幕下なれど、由緒ある家に就き山口氏より秀吉に申出で、島長たること旧の如く許さる。
一、慶長元年閏七月地震。(此時の当主幸松丹次郎勝忠及び甥左門丸信重のことは前出。)
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
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