(注、「勘兵衛記」は別掲と同文なるを以て省略する)
慶長元年七月三日地震、同十六日十七日地震、又廿三日ヨリ廿八日迄地震、一日ニ五度ヨリ十度ニ至ル、然ルニ心有ル者四十六人立退テ荏隈村ニ仮小屋ヲ建ル、其月モ過テ閏七月二成、四日五日地震、右ニ付逃退者甚多シ、閏七月十一日未刻ヨリ大小地震数不知、翌十二日豊後国高崎山木綿山鶴見山霊仙山等悉ク山崩レ川溢レ、………諸人恐怖シテ東西ニ奔走スル事筆紙ニ難記シ、別テ瓜生島ノ事ハ人民愁歎ノ声天ニ満ツ、然ルニ十二日申ノ刻ニ至テ地震暫ク止ム、時ニ瓜生島ハ申ニ不及、別府浜脇ニ至ル迄大ニ喜悦シテ浴スル有、食スル有、食セザル者モ有、時ニ又々天変生ジテ海中大ニ鳴響ス、甚奇異之思ヲナシ諸人東西ニ走ル事実ニ筆上ニ難記、時一人ノ老翁白馬ニ乗リ鞭ヲ揚ゲ、此鴫只今崩ルベシ、早ク陸地ニ舟ヲ寄テ逃去ルベシト高声ニ申タマヒ島中ヲ走廻ル、島長幸松丹次郎勝忠ハ今老翁ノ御沙汰ヲ得テ、甥幸松左門丸信重ヲ供シ馬ニ乗テ、今明神之御告グヤ早ク立退ヘシ、遅滞セバ神明ノ御告ゲヲ背ノ罪有ト、勝忠信重島中ヲ走廻ルニ島ノ人民周章シ、若ハ老ヲ助ケ親ハ子ヲ助ケ、各小舟ニ乗テ逃ント実ニ大混雑也、此時村里ノ井水悉尽大海汐干ル事不常、依テ海底五尋ノ岩砂顕ル、然ルニ又々東ニ声有、百雷ノ落ルガ如シ、忽洪涛起リテ府内及近辺ノ邑里ニ大波至ル事頻也、此時幸松丹次郎勝忠ハ小舟ニ乗テ、左門丸信重ハ何国ニ有ル哉ト呼バヽルニ爰ニ在リト手ヲ出スニ、勝忠信重ガ右ノ手ヲ握ルニ、波涛来リテ行先ヲ不知、只忘然ト而波上ニユラレナガラ信重ガ手ヲ握テ不放、又佐門丸信重ハ両足共ニ波上ニ乍在漂ヒ行ニ、大空ニ声在、勝忠手ヲ出ス可ト言ニ付眼ヲ開キ見レバ、老翁来リテ一丈計ノ竹ヲ出シ、此竹ヲ可持ト言、勝忠嬉シク弓手ニテ彼ノ竹ヲ持、馬手ニテハ信重ノ腕ヲ握リテ居ルニ、暫時ノ間ニ山ノ端ニ着船ス、亦老翁ヲ見レバ老翁ハ見エズ、只山計ニテ、此時勝忠人心ニ復シ、誠ニ神明ノ加護ニ依ツテ不思議ノ命ヲ助リシト思、又信重ヲ見ルニ早息絶テ不答、勝忠周章シテ信重ヲ抱キ起シテ頻ニ声ヲ掛ルニ、漸ニ夢覚メタル心地シテ蘇生スル時ニ、雨ハ頻ニ降テ車軸ヲ流スニ不異、両人共ニ松ノ樹ニ在、陸地ニ行ニ則加似倉山也、然ルニ難有ハ此山ヲ始向大宝山大平山ヲ見ルニ数百ノ灯灯アリ、悉ク由原宮善神王宮ト記シ在御神灯也、如何ナル人ノ立タルヤラント奇異ノ思ヲナス、斯テ勝忠信重ハ加似倉山ニ在テ其夜ヲ明スニ、暁ニ至リテ右ノ御神灯消失ケリ、誠ニ由原宮加来善神王宮之御守護也ト、両人共ニ難有伏シ拝シケル、………勝忠、信重ハ慶長元年閏七月十三日朝ニ至テ加似倉山ニ忘然ト而海上ヲ見渡スニ、数代住馴シ瓜生島十二村ハ跡形モナク、只漫々タル海上ト成、実ニ夢現之界ヲ不知、余リノ大変ニテ涕モ不出シテ在ケルニ、大分郡浄土寺四世ノ住職馨誉上人来リテ、不取合我寺ニ来リ給トテ、則丹次郎勝忠多門丸信重両人共ニ浄土寺ニ寓居スル。(瓜生島崩ノ由来)
地震の性質 此の地震に就ては、「大分市史」に委曲を尽して述べてあるから、長文ではあるが、先づそれを引用しよう。
(注、「史料」第一巻五九〇頁下四行目以下と同文なるを以て省略)
と、慶長地震の震域並に津浪の区域を説明してゐる。然るに又「大正五年大分県気象報」に『大分県と地震噴火』と題する理学博士大森房吉氏の論文が掲載せられた。是より先二十余年前佐藤順一氏は大分在任中、瓜生島に関する史料を蒐集し、之を大森博士に提供されたが、是等に基づく博士の意見は権威あるものと考へる。次のやうである。
地震ト地面ノ変動(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)地震ハ其ノ震央附近ニ於テハ強クトモ震央ヨリ距離ヲ増スニ従ヒ微弱トナル、故ニ広大ナル地域ガ全般ニ深ク陥没スルコトハ有リ得ベカヲザルコトナリトス。天武天皇十二年ノ土佐国大地震ノ時田園五十余万頃没シテ海トナリシハ正史ニ載スル所ニシテ事実ナルモ此ノ時土佐湾ガ陥没セリナドヽ想像スルハ大ナル誤ニテ、頃ハ代(シロ)即五歩ノコトナレバ五十余万頃ハ僅ニ約二十六町平方即一平方里ニ足ラザル地積ニ当ル。土質弱キ国府附近ノ田園ガ少シク低下シテ海水ニ覆ハレタルニ過ギザルヲ知ルベシ。………大分別府地方ニテ最モ顕著ナリシ地震ハ慶長元年閏七月九日ノ地震ニシテ瓜生島ノ低下セルハ此ノ際ナリキ。此ノ地震ハ同年月十二日ノ彼ノ有名ナル伏見大地震トハ別ニシテ三日ノ時差アリ……即チ瀬戸内海西部ノ強震部類ニ属シ、別府湾海岸ニ最モ接近シテ発セルモノトス。瓜生島ノ地震ハ閏七月九日ノ午後八時頃ニ起リ津浪ヲモ伴ヒタリ、旧記ニ瓜生島陥没シテ海トナレリトアルモ、勿論同島ガ数十尋ノ深キ海底ニ沈ミタルニハ非ズ、斯カル事ノ有リ得ベカラザルハ既ニ前記セル所ニシテ陥没(・・)トハ誇張ニ過ギタリ。元来築堤ノ類ガ強キ振動ノ為メニ落チ付ク結果十余尺モ低下スルハ稀ナラザル所ナルガ、瓜生島ノ中ニテモ土地柔弱ナル市街地浜辺等ハ数尺ノ低下ヲ受ケ水ニ覆ハルヽニ至リシモ岩石地及堅碍ナル台地ハ当時ノ水上ニ存セシナラント推セラル………尤モ此ノ地震ニ際シテ多少海底面ニモ昇降変動アリテ津浪ヲ誘起セルモノト考ヘラル。(猶大森博士の論文「震災予防調査会報告、第八十八号乙」本邦大地震概表も殆んど同一趣旨につき省略した。)
即ち「大分市史」の論と、大森博士の意見とには多分の相違がある。吾々は穏健な後者に従ひたい。元来地質学的に研究すれば高崎山沖の方はたしかに陥落地帯に相違ない(佐藤伝蔵氏大日本地誌)であらうが、併しそれは慶長元年の地震の時に生じたものではない。海図を按ずるに日出杵築の方面に比し高崎山の沖合一帯は海が平均二十尋も深くなってゐる、之だけの大変化が慶長元年の地震によって生じたのではない。さうなったのはもっと昔のことである。瓜生島は山あり谷ある島嶼の類ではなく、現今の弁天島の如き砂洲であったことは既に「雉城雑誌」の著者の説けるところであって、大きい津浪が引けば大部分は洗ひ去られる質である。それに多少海底の隆起沈隆等が伴って、遂に瓜生島低下(・・)といふことになったとの断定は蓋し当らずと雖も遠からずであると信ずる。