荘内旧社 四ケ所 姪子社 住吉社 宇那大明神 三社天神
新社 一ケ所 道祖社
寺 三ケ所 阿弥陀寺 阿含寺 称名寺
館 一ケ所 則幸松丹次郎勝忠 同幸松左門丸信重居宅也
村 十二ケ村 森崎村 申引村 中津村 松崎村 大久光村 小久光村 浜村 村 村 村 村 村
町 一ケ所 沖浜町 北裏町 中本町 南町
賀来荘笠和郷幸松荘 右三郷ノ海岸ニ十二崎在、俗呼テ三郷之崎故三崎ト曰、又十二ノ三崎トモ曰。
地図を按ずるに、瓜生島の略中央南岸に沖ノ浜の町があり、三筋の町筋が東西を縦として並んで、家数約千軒と伝へられるから(雉城雑誌)、相当繁華な街区をなして居たらしい。
其町縦于東西並于南北、三筋成町、所謂南本町中裏町北新町、農工商漁人住焉。(豊府紀聞、巻四)
此の町名は南町・中本町・北裏町とも伝へる。此の町を中心として、西に申引(さからつ)村・森崎村の二村、東に中ノ津村・浜村・松崎村の三村があり、久光島に大久光・小久光の二村がある。前記の幸松氏旧記に、十二ケ村とあるから、此の他に尚五部落があったものと思はれる。尚幸松氏の館は沖ノ浜町の西に当って埴(はに)屋敷として記され、此の島の漁長であった。
道路は府内の町から、一は生石を経て高崎山の裏側銭瓶峠を越えて浜脇に出るものが近世迄本道となって居たが、瓜生島の存在せる頃には、此の他に、府内の町から勢家を経て北進し、二町半の渡場を渡って沖ノ浜に入り、瓜生島を横断して、八町の海峡を久光島に渡り、浜脇に達する道もあったらしい。
社寺等 次に神社新旧四社の宇那大明神は島の西部に在り、三社天神は埴屋敷の附近に、道祖社は沖ノ浜町に、蛭子社は東部浜村に、住吉社は同じく東部松崎村に見える。
此の内宇那大明神に就ては、「豊陽古事談」の元慶四年の条に、その祭祀の起源が見えて居る。
同年(元慶四年)九月、向崎、在沖、之浜、漁人瞻国造神降臨之霊兆、立宇那大男神祠于瓜生島、(割書)宇那大男即豊国造宇那足尼宿祢也。(豊陽古事談、巻中)
蓋し祭神宇那足尼(うなのそこね)は、成務天皇の朝に始めて豊国造となった人である。
又地図には塩竃祠といふのを記してゐるのもあるが、これに就ては「豊陽古事談」に創立のことが見える。
仁和四年戊申十一月建塩竃祠于瓜生島、居民森崎氏有神託之事、勧請焉、以十二月中旬成。(豊陽古事談、巻中)
尚其の他の神社の由緒に就ては、便宜上後章遺跡の項に一括しよう。
偖て島の寺院としては、前記の三ケ寺が挙げられるが、阿含寺・称名寺の位置は明かでないが、阿含寺の創立に就ては幸松氏記録に次の様に見える。
享徳三年之記曰、京師之僧慈良ヲ為開基、十念山阿含寺建立ト成。
又阿弥陀寺といふのは、或は地図に沖ノ浜の附近に道場と記せるものか、但しは蛭子社に近き西応寺を指すものか、その何れかであらうと思はれる。西応寺は地図に依っては記せるものと記さないものがあるので、果して此の島に在ったものか否かは詳かでない。若し阿弥陀寺を以て沖ノ浜の道場とすれば、これは明かに後の威徳寺でなければならぬ(阿弥陀寺の山号も威徳寺と同じく瓜生山とある)。此の寺は幸松氏記録には、天正十六年の創立とある。又「豊陽古事談」の地図には島の西端に垂井寺といふのがあるが、これも疑問視すべきである。
又久光島には大久光村に道場と記せるのがあるが、これは恐らく今の別府市なる海門寺の前身であらうと思はれる又「豊陽古事談」の地図には、小久光村に久光寺といふのも記されてある。久光島は家数五百軒あって、これ等の寺院の他に、火王宮もあったといはれる(雉城雑誌)。これ等の寺院に就ても後章に詳述しなければならぬ。
尚沖ノ浜の東には勝久塚といふのが、地図に見えるが、これは此の島に謫居中に歿した島津勝久の墓と称するものであるが、又別にその居館も此の島に在ったといふ(雉城雑誌)。
慶長元年の豊後大地震と瓜生島の低下 瓜生島の低下は全国的にも有名で、その地震の性質等に就ては、中央の学者中にも、既に之を発表せる人がある。併し瓜生島の全般的な研究はまだ其の綜合には達してゐない。向後の学者の研究上の参考にも供したい考で、やゝ煩雑且は重複する点もあるが、原文のまゝの文献を列記することにした。先づ地震の概況に就て、
(注、「豊府紀聞巻四」、「豊陽古事談巻下」、「威徳寺由来書」を引用するも別掲と同文なので省略する)
慶長元丙申歳閏七月十一日十二日天下大地震、豊後の国殊に大地震、山崩れ川溢、四極山 木綿岳 鶴見山、霊仙山々等山頭巨石悉落、大地裂て十二日申の刻止む、人民安心す、此時十一日十二日の驚動筆紙に尽しがたし、時に一人の老翁白馬に乗て馳廻り告て曰く、此島今崩るゝ故早く陸路に船を押て立去れと高声に触歩行(ふれありく)、或人曰此翁は当府の宗廟春日大明神なり、と、又或人曰く此島の住吉大明神なりと、、于時島長勝忠また馬に乗りて今神明の告ぞ早く立退き可申、遅滞せば神託に背くの罪ありと、島中を走り廻り、島中の老若男女周章一方ならず、思ひ/\に陸に立去る、島中の人半は死し半は生る位歟。(長松寺仙玉、瓜生島考)
尚此の地「雉城雑誌」等にもあるが、殆ど内容同一であるから省略して、次に遭難の状況を記した記録として、幸松氏記録(一篇の小冊に纏めて、「瓜生島崩の由来」と題してある内藤平四郎といふ人の編、無論写本)と「柴山勘兵衛記」(碩田叢史中に収む、柴山勘兵衛重成は岡藩中川家の臣で、慶長元年朝鮮役に養父重祐——此の人は両賀ともいふ——が従軍した時、留守居として両賀の居宅沖ノ浜に住して居た。因みに当時沖ノ浜は中川家の船着であった。同年十一月今津留に替地となった)の二書に詳述されてある。先づ「勘兵衛記」から、