按ニ当代今ノ勢家町ノ海浜ヨリ北ノ方速見郡深江ノ港及日出城ノ港口迄ヲ海上三里余トス、然ルニ聞書ニ載ス処ノ説ハ、此瓜生島ト勢家町トノ間二十丁余、島ノ幅員南北二十丁余、此島ヨリ北速見郡ノ地十九丁余ト記セリ、此丁数通計六十丁程ニシテニ里ニ近シ、恐ラクハ件ノ丁数ニ書写ノ誤脱アリテ、速見郡ノ地ニ三十九丁余ノ三ノ字ヲ脱スルニヤ、又彼地モ此水災及ビ当代ニ至テ海岸没入モアリテ里数ノ違ヒモアルベシ。(雉城雑誌、巻八)
又更に、此の島が地図に依れば、余りに西に寄り過ぎ、久光島との間の余りに近過ぎるとし、種々の例証を引用して、(一)此の島と久光島はずっと離れ、(二)高崎山の沖は今見る如き洋中であった。(三)又外船の頻りに渡来したといふ神宮寺浦は瓜生島の港口であって、その島の西端が白木の沖に迄到るといふ様な狭い海ではなく、(四)此の島の西端は少くとも、生石・駄原の海の辺で、島は地図に見るよりもずっと東に寄って居たと考証して居る。これが例証として引用したのは、瓜生島が没入した時久光島は沈没しなかったこと、天正の乱に春日社の大宮司寒田右衛門太夫が高崎沖で遭難沈没したこと、住吉社の祭礼の神幸の路順等を挙げて説明して居るが、一々引用することは余りに煩雑であるから、すべて省略して置かう。
地 勢 元来別府湾の沿岸は、東に鶴見・由布の両火山聳え、海岸に一個の寄生火山と目すべき高崎山が屹立し、山脚直に海に入り、西岸一帯温泉の湧出多く、土地の変動常に絶えざる処といふ。南岸は大分川・大野川の二河海に注ぎ、稍広闊なる大分・鶴崎の平野を形成し、北岸亦国東半島の基点に八坂川の流入あり、此の南大野・大分二川と北八坂川とを繋ぐ線は、水深著しく浅く殊に北岸に近き辺にあっては十六・七尋を出ない有様であるが、それより西部湾内に入りて次第に深く、湾の西南隅高崎山の沖合に於ては、四十尋に達する所もあって、湾内の海底は恰も一盆地の如き観を呈して居る。而してその周囲の海浜は、西南隅高崎山の沿岸が山脚海に没して荒磯となって居るが、それ以外の部分は多く砂浜を形成して居る。
周囲の地勢は大体この様な状態であるが、往時の瓜生島は此の別府湾の南岸に近く、最も本土に近き処で渡し二町半に過ぎなかった。尤も「雉城雑誌」には現今の勢家より北の方二十余町として居るが、これは既に「雉城雑誌」の著者も指摘して居る如く、今の勢家は殆んど海岸真近であるが、それは次第に海水に浸蝕せられたのであって、往時にあっては勢塚の北はずっと広い地続きであったらしく、地図を見るに、勢家附近の海岸線はずっと北に突き出て居る。
地図を閲するに、此の島は南は海岸線単調であるが北及び東は余程複雑となって居る。即ち東に神崎と恵悦崎の二岬に包まれて可成広い入江があり、北に磯崎に抱かれて細長い潟入があり、又それに隣って西に毛利崎の擁する小入江が見られる。島の大さは「雉城雑誌」の引用せる「雑誌」には、東西三十六町、南北二十一町余あったといひ、又周囲凡そ三里許であったと伝へられる。更に此の島の性質は今にして推定することは困難であるが、地図に依るに、別に山らしいものも認められないから、恐らくは極く低い一種の洲浜様の島ではなかったらうか。伝へる所に依ると、此の島からは一種の礫岩様の岩石を産し、それを切出して井戸側とか墓碑等に使用され、瓜生岩と称せられたとのことであるから、島には多少さうした岩石質の地もあったらうと想像される。その瓜生岩たるものは、恰も人工的な三和土に似て、小さな礫を含有した様な粗脆な石質である。
北の島の西北渡し八町で久光島に達する。此の島は前述の如く地図に依って、或は半島とし、或は嶼島とする等区々であるが、恐らくは今の浜脇辺より細長く延び出で、その狭き所に於ては、満潮の時海水を通ずる程度の洲崎ではなかったらうか。而して大久光・小久光の同一島であったか、但しは別島であったかも、これと同様な消息であったらうと思はれる。
名 称 此の一群の島の内最も大なる主島を瓜生島といふが、又一名を跡部島(又は跡辺島に作る)とも言った。それ等の名称に就ては、各一種の地名伝説と思はれる説がある。先づ瓜生島の名の起源に就ては、「豊陽古事談」の元慶四年の条に、
頃有慶朝、権僧正遍昭之弟子也、嘗崇信住吉神、一時有故見擯、謁摂之住吉祠、至心祈赦、神告焉使西遊、路過豊後、#寓大分郡笠和郷、時游沖浜、慶朝恒恰瓜、偶植瓜於沖浜、甘美不可謂、遂久竣於此、因奉住吉三神、建祠祭之、因名島曰瓜生島、仁和三年得免帰。(豊陽古事談、巻中)
又跡部島の名に就ては幸松氏記録に見えて居る。
天徳元巳年ノ記ニ曰、此跡部島ノ五島ハ六神ノ魚取ノ時造レル島ナリ、故ニ神ノ御跡ナリト言故ニ号スト、一言主ノ神ヲ島ノ神ト祭ルナリ。
此の幸松氏記録の地名考も随分怪しく、且つ「古事談」の説も果して何に依ったものか詳かでないが、共に地名縁起の一伝説に過ぎなからう。
瓜生島又は跡部島の名称は余り古い史書には見えず、古くは沖ノ浜なる名称が多く用ひられて居る。これは元来瓜生島内の一町名であるが、これが此の島の港であり、且つ中心をなす市街地であったので、此の町名を以て島の名の如く用ひられたのであらう。
島内の町村 瓜生島は幸松氏所蔵記録に依れば、文禄二年の検地に宮部法印高入をなし(恐らくは山口正弘の高入ではなからうか。宮部継潤の検地は、国東・速見・玖珠・日田の四郡であり、大分郡は山口氏の検地であった)、幸松荘の調査として、次の如くある。