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項目 内容
ID J00006323
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/04
和暦 文禄五年閏七月十二日
綱文 文禄五年閏七月十二日(西暦 1596,9,4)
書名 〔瓜生島研究〕 / 「豊府古跡研究 六」
本文
瓜生島
位 置 今は既に海底に没し去って影も形も留めない、謂はゞ幻の島の様であるが、往昔の大分の海には瓜生島・久光島等と名づける一群の島が、緑の影を映して浮んで居たと信ぜられて居る。
今此に瓜生島のありし日の俤を写したといふ古地図が三種吾々の前に繰広げられて居る。一は曽つてその島の住人であったといふ幸松氏所蔵のもの(「豊国小史」や「大分市史」等に載せられたもの)、二は「豊陽古事談」といふ古書に附載されたもの(本誌所載)、三は植樹円平氏の所蔵で、明治十四年頃に写したものである。此の三種の古地図に依って当時の瓜生島その他の模様を考へて見るに、
唯今の大分市を中心として、東は東大分村大字萩原の沖、西は八幡村字白木の沖にかけて半島入江の多い稍東西に細長い瓜生島の主島が浮び、その北東に今の別府市大字浜脇の附近から、高崎山の沖合にかけて細長い久光島が浮んで居る。而して此の久光島は幸松氏地図では島といふより寧ろ半島といふべきで、浜脇の東の辺から細長く海に突き出し、基部は狭く陸続きとなって居るが、「豊陽古事談」所載の地図は本土との間に一葦帯水の隔りがあり、植樹氏のものは、全く独立した島となって居る。又此の二図は共に別府・石垣の沖に、久光島に隣って小久光島と他に一小島があるが幸松氏の図にはそれがなく、大久光・小久光共に久光島内にある一村となって居る。次に瓜生島の東南には、本土との間、中津留の沖に大洲といふ一小島を伴うて居る。又幸松氏記録には、瓜生島として左の如く見えるが、果して地図上の何れと何れを指すか明かでない。
康永四年ノ記ニ曰く、此跡部島ハ島四ツノ荘名也、則瓜生島、此瓜生四島ト云フハ、
瓜生島 久光島、、大久光、小久光、真崎島 志満島
右元弘ノ記、跡部島五島トアリ、康和四ノ記、跡部島四島トアリ、何レモ是非知難。
江戸期豊後の碩儒脇蘭室は、その著「#海漁談」に、豊後の古地図を見るに、瓜生島といふのを載せてないから、『此図を作るとき既になかりしにや』と疑って居そし、又現に伝はる大友氏時代の府内の図と称するものを見るに、一向それらしい島もなく、瓜生島に在るべき筈の沖ノ浜町や蛭子社等はすべて勢家の地と地続きになって居るので、中には瓜生島の存在を疑ふ人もあるが、然し此の大友時代の府内図なるものは、既に「雉城雑誌」の著者も言って居る通り、その原図は恐らく日根野吉明が古跡を聞き合せて、抱絵師前田等修をして描かしめたものらしいから、此の島は既に吉明の時代には海中に没し去って居たからして、その辺が曖昧になったものであらう。又此の島の位置に就て「雉城雑誌」の著者は、此の島が今の勢家町の北二十余町、北の方速見郡の地に十九町余あったといふ里民の聞書を挙げて考証して居る。即ち——
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
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備考 [古代・中世] 地震・噴火史料データベースでは史料等級で分類しています。本データベースでは史料等級の低いものも表示しており、信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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