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項目 内容
ID J00006333
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/04
和暦 文禄五年閏七月十二日
綱文 文禄五年閏七月十二日(西暦 1596,9,4)
書名 〔瓜生島研究〕 / 「豊府古跡研究 六」
本文
称名寺、善巧寺、塔中、寺記曰、勝久卒去ノ後、沖ノ浜瓜生島に葬リ大友義鎮冥福ノ為ニ当寺ヲ建立、然ルニ文禄丙午ノ水災ニ墳墓並ニ当寺モ漂没シ、古記録卒死ノ年月詳ナラズ。
且つ同寺内には勝久の位牌たるものが保存されてあると見えて居る。
然るに今此の善巧寺の塔中称名寺は既に三・四十年前廃寺となり、本尊其他すべて処分して了った為、位牌等もなく、建物は普通の民家となってゐる。又善巧寺現住に尋ねても、此の称名寺がもと瓜生島に在ったといふ様なことも又勝久追善の為の建立であるといふことの伝唱は全然ないとの話であり、善巧寺の由来記(寛政十二庚申年改之とある)には、唯
塔頭称名寺義者、古城名号小路町ニ而御座候所、開基浄誓法印(これは善巧寺開山)を慕候て塔頭と成申候。
とあって、もと名号小路(今の名ケ小路)にあった旨を記してゐる。これを信ずるとせば、善巧寺浄誓は天正中の人であるから、慶長水災後瓜生島より名号小路に遷ったとも思はれず、瓜生島のと、善巧寺塔中のとは同名異寺と児るより他はない。果して如何なものであらうか、後考を侯つ。
島津勝久の墓
については「雉城雑誌」に於て諸書を参照して縷々意見を述べて居る。先づ「島津家譜」を以て、勝久の前半世を叙し、当国に来って大友氏に寄食する様になり、義鑑は殿営を沖ノ浜に設けて住せしめたが永禄中に卒したことを記し、次に「筑紫軍記」によって、勝久豊後に敗走して家亡びんとする次第を述べてあるが、吾々が勝久の人物を知らんとするにはいづれも較々疎であるが故に、今「島津世録記」「近世国民史」等によって少し許りそれを補って見たいと思ふ。島津氏十二代忠治、十三代忠隆十四代勝久、此の三氏とも十一代忠昌の子で前二者は二十七歳二十三歳にて逝き、大した功績もなかったらしい。そのあとを継いで勝久が立ったが、父忠昌程の気慨もなく島津氏歴代中劣等の君主ともいふべき人物であった。且つ柔弱なる勝久は初めその夫人の弟島津実久に政を委ねたけれども、実久は性放恣でやがては勝久に代って自ら世子たらんことを求めた。勝久は遂に実久と反目し其夫人を去り、止むなく忠良に頼ることになった。大永六年のことである。これより忠良は実久に代って政をとり、其子貴久をその養嗣とした。大永七年には勝久家を貴久に譲り、忠良をして後見役たらしめ、伊作に於て剃髪した。忠良も亦剃髪したが、更に実久の党を攻め、全く島津家の実権を掌握したが、一方実久の野心は痺まず、甘言を以って勝久・忠良間の意志を割き、勝久の心をして再び己れのものとした。実久は当時十四歳の貴久に向って守護職の返却をせまるので、貴久は勝久に面会し、事の次第を聞くが、勝久は其の関知せざることを弁じ、伊作より鹿児島に入って再び守護職となったので、#に形勢は全く一変し島津家の勢力者は実久のものとなった。享禄二年には島津の家臣等鹿児島に会合し、国政を靖ぜんことを謀ったが、勝久はこれを快しとせなかった。天文二年勝久は忠良に対つて、曽つて貴久に与へた伝家の宝器の返却を促したが、忠良がこれを拒んだがために勝久・忠良の間は益々疎さを増したといはねばならぬ。忠良父子は其後南郷を恢復し、日置をとり、その勢力を再び擡ぐることゝなった。此間勝久は末弘・小倉等の新進者を寵幸し酒色を事とし、政務を忽にした。川上等の重臣は勝久を諌めたが納れられず、末弘を殺した。勝久は恐れて祢寝に奔った。これは天文三年十月廿五日のことである。翌四年四月には勝久は鹿児島に還り、川上を召して自殺せしめた。其翌年九月、実久は川上の党と共に鹿児島を襲って之れを占領したゝめに、勝久は遂に此に留ること能はず帖佐に奔った。実久は其後恰も守護職然として其の権力を把握してしまった。勝久は爾来流浪の身となり、帖佐より吉松に、都城に、遂に其の母の家大友氏を頼り、豊後沖ノ浜に寓居し、天正元年七十一歳で逝った。
勝久同年(天文四年)十月十日向隅州帖佐去、而後託身於祁答院、北原鹿児島為実久之所有也、翌年夏到真幸院般若寺、居住者八九年、其後到荘内都城、留滞者八九年、而去在豊後居住沖浜。(島津世録記)
其後島津家に於ては、忠良・実久の権力争覇戦となり、いよ/\貴久守護職となり、後見としての斡旋良しきを得、時偶ま鉄砲の伝来あり、聖徒ザビエーの来るあり、内政を整へ、外異国の文物輸入に務め、実に後代島津家隆盛の基礎をなしたのである。
思ふに勝久の凡庸は島津家にとっては凶の凶なるものであった。然し雨降って地固まる諺の如く彼の放恣は将来の島津家をして発展せしむる一大鉄鍼となったといはねばならぬ。一屈一伸の一屈に相当するところといはねばなるまい。晩年異郷の仮寓に於て彼の胸中には一抹の悲愁悔悟仄めいたものがあったであらう。没年に就て「雉城雑誌」は永禄年中説(ヽヽヽヽヽ)をとり或説として天正元年(ヽヽヽヽ)を挙げて居る。「近世国民史」は天正元年説(ヽヽヽヽヽ)になって居る。「豊後国志」も同説である。
墓所については「雉城雑誌」に於て、
一、今の沖ノ浜町東裏新田の辺に島津の森とも大翁塚とも唱へ来ったものがある。中古同処から三基の古墳を掘出した。これは勝久に殉死したものゝ墓であらうといふ里老の語。
二、文禄水災後岸の崩より五輪の石塔婆を掘出したのでこれを太平寺邑に遷した由。
三、当代沖ノ浜町西裏畑の中に二間四方の空地があり、其の中に三囲許りの大榎があった。これを勝久の塚印の木とも、或は大友の家臣の屋舗とも、或は春日の社司の墓とも称へて居た。
四、称名寺の寺記を引き、勝久卒去の後沖ノ浜に葬り、大友義鎮冥福の為めに当寺を建立した。然るに文禄丙午の水災に墳墓並に当寺も漂没し古記録卒去の年月詳ならざることをあげ、同寺位牌の法諱『称名寺殿島津勝久公大翁大居士神儀』の文句は拙いから愚盲の後人の作為かといふ。
是等の説を列挙し、尚披見したる図について勘考するに、其の墓所は現在の海中と思はれるし、又一説の沖ノ浜西裏の墳所が是なるものゝ様にも思はれることを附説して居る。
「豊後史跡考」鶴谷翁は以上「雉城雑誌」説の後に、寛永の頃製した旧府の図に勝久の墓とあるのは恐らく真の墓ではなからう。瓜生島は慶長元年丙申の閏七月、地震海瀟の為め、陥没したもので、寛永は慶長元年を距る廿七八年の後である。若し寛永の府内図に、勝久の墓が在りとすれば、其の陥没後、再び仮設したものであらう。と附説して居る。
同人等思ふに、勝久が瓜生島で没したこと。卒年は天正元年であること。墓所は瓜生島にあったこと。瓜生島低下と共に海中に没したこと。其後現沖ノ浜町附近に墓所を仮設したこと等。是等はいづれも肯定し得る。
勢家の勝久の墓と称するものに就ては、高山通男氏の言に依って所在を知り、電車にて浜町に下車し、七本木といふ松林を南に入ること約二十間余で此れを詮索し出した。北は高山英明氏所有の畑、南は是永寿平氏所有の畑、此の両畑の境に方一間半余の壊れた玉垣中に一基の高さ一尺半程の自然石が坐って居る。前には是永氏の篤志によって花筒が立てられ、新しい花も生けられて居る。是永氏に就て聞くに、
一、薩摩から明治二十年頃此の墓を訪ねて来た。時の大分県知事が案内者であった。
二、玉垣は其の当時作ったものであらう。
三、当時発掘等した様だが遺骨等は勿論何等掘出したものはない。
四、現在此の墓の守をするものはない。
五、自分は縁りも何もないが、無縁の状態なので時々お花とか、燭等をあげて居る。
此の墓が後人の仮設したものであるとは謂へ、島津第十四代勝久の霊は今当市高山・是永二氏によりて、時々寂しく香花を手向けられるのみである。
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
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