乾の巻
慶長元年七月十二日当イワウ灘より津浪起り、海辺郡を沈没す。奈多宮本社拝殿楼門鳥居残なく沈没す。神場洲というは、文禄年中迄は、今の洲崎より南の沖の方へ十町斗り洲有て、並木の松原茂り栄え、其末に観音の有て、此辺の士農工商歩みを運び、依之、此洲の内は沈浪なく旅泊の大船小船も碇を入、纜を結事なく、天下無双の湊なりしが、津浪に沈没して水底と成。今十町斗り沖に立たるミヲ木は、観音堂の跡水底に残りし岩尾の上に建る。是は土人の船の為に建置かし也。其外沈没みからず。……
坤の巻
府内城 大分郡 号荷揚城。
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(早川主馬首長敏)同郡家島に居住。
或人曰。此家島は鶴崎と三佐の間に有て、慶長元年洪水の節流失なるべし。当時は聊の島にて臼杵侯の領地也。人家も有之候得とも、諸侯の居館にすべき所にあらず、早川氏洪水の節、此家島の漁民を撫育せし事情成る申伝へ有之、府内の城主たる事明白也。其後、府内城へ入部成べき云々。慶長元年丙申、太閤秀吉公豊後国を以、七人に配当、府内城は早川主馬首長敏壱万七千石拝領。御預ケ地以前之通。此城天正の兵火に罹り廃墟のみ也。早川修補、或は再造せしむ。同年閏七月十三日或日、九日洪水人民七百八人、牛馬数を知らず。此時瓜生島悉く沈没海底と成。瓜生島は沖の浜より向地の辺迄、長さ東西一里、南廿丁。今の勢家町の北、廿余丁にあり。町三筋、南を本町、中を裏町、北を新町といふ。速見郡の地に拾九丁余といへり。一名は沖の浜と称す。漁家千余軒、居民五千余人、今の沖の浜町は多くは、其時の居民の子孫也。今の沖の浜は、其時早川氏建る所の町也云々。溺死せざる者僅七分一也。(溺死七百八人云)同十三日早川長敏飢民を憐み衣食米銭を与ふ。茅屋を結びて居住せしむ。慶長二年丁酉正月中旬、石田三成の沙汰として、早川長敏府内城返上。