早川氏の治政時代として大分市民が忘れられぬ追憶は大分港沖にあった瓜生島が海中へ消へてなくなった慶長元年七月十二日の大地震と大海瀟とであった。
この大震災は島津軍の乱入に続く府内(大分市街)の大不幸であった。
早川氏治政(文禄三年より慶長二年まで)五ケ年間
瓜生島陥没と地震
瓜生島を陥没した大分地方の大地震は同時に土佐海岸へも大津浪を伴ひ、大阪湾、伊予の西北岸や周防長門の海岸なども起ったもので各地とも大きい被害があった。
大分方は初めに激震があり二時間半ばかり経て海水はグングン数里の沖合まで引き、干渇が出来上ったので瓜生島は陸続きとなった。
そして半時ばかりすると山のような怒涛が逆まき瓜生島を一なめにして府内平野を襲ひ民家商家はもちろん、神社、仏閣を倒伏し洗ひ流してしまった。地震の起りが昼であり海水が鳴動していたので瓜生島の漁民や府内の住民たちは驚愕し津浪の前兆ではないかとぱっと噂が立った。混乱は又くりかへされ人々は勢家町の小高い処や山地をさして遁れたものも多かったので津浪の害に比較して死傷者は割合に少なかった。しかし溺死者は七百八人に及んだといふ。
この際に豊後湾内に艶麗な姿で浮んでいた東西卅六丁、南北廿一丁余、周囲三里余の瓜生島(一名沖の浜)は海底に沈んでしまったのである。この大震災、大津浪の大惨害に対し城主の早川長敏は避難した島民に衣服や食料を与へ、勢家に仮屋を建てゝ移り住ませたがこれが今の沖の浜町で島の名をそのまゝつけたものだと伝へられている。
瓜生島の海底陥没に就て理学博士大森房吉氏は「大分県と地震噴火」と題する論文中に左の如く述べている
「前略」大分別府地方で最も顕著なる地震は慶長元年閏七月九日(西暦千五百九十六年九月一日)の地震にして瓜生島の低下せるは此際たりき。此の地震は同閏年七月十二日彼の有名なる伏見地震と別にして三日の時差あり瀬戸内海西部の強震部類に属し最も別府海岸に接近して発せるものとす。此の地震は閏七月九日の午後八時ごろに起り津浪をも伴ひたり。旧記に瓜生島陥没して海底となれりとあるも、勿論同島が数十尋の深き海底に沈みたるには非ず。斯る事の有り得べからざるは既に前記せる所にして陥没とは誇張に過ぎたり、元来築堤の類が強き震動の為に落ち付く結果、十余丈も低下するは稀ならざる所なるが瓜生島の中にても土地柔弱なる市街地浜辺等は数尺の低下を受け水に覆はるゝに至りしも岩石地及び堅硬なる台地は水面上に存せしならむと推せらる。大分市の威徳寺は元瓜生島にあり。寛永十七年現今の位置に建立せられたるものなるが、其の由来記に「文禄五丙申年(即ち慶長五年)……大地震動——潮水奔揚——瓜生島の屋宇若干漂没して島八部は海となり其後は島漸くに崩れて海路となれり」とあり、前記の推論を確むるものと思はる。尤も此の地震に際して多少海底一面にも昇降変動ありて津浪を誘起せるものと考へられる。現時のカンタン小島は或は瓜生島に属せしならむか。
(以下略)
瓜生島と関連してカンタン湾の称呼であるが、カンタン湾と別府湾と混同するは誤りである。カンタンという名称の起りについて豊後史跡考は次のように述べている。
カンタン海の名は瓜生島がある頃から存在した名称でその区域は瓜生島と神宮寺浦との間に在った一部分の名称にすぎない。豊後湾または別府湾などというような内海全部を指したものではない。カンタンの名は国志の記する処に明で、天文年間に明の人で阮林と云ふ者が航海して来て臼杵に寓居していたが屡々この地に来て地形を見その形状からカンタン海と云ふたことから起ったものである。即ちその称呼は瓜生島の陥没前からあったものである。三浦梅園翁の豊後事績考中に住吉神社の事を記している条(くだり)に六月の祓会(はらいえ)には神輿を小舟に乗せり、十二人の神楽男(かぐらおとこ)管絃を奏し、八人の舞姫、袂をひるがへし、邯鄲(カンタン)の港を漕ぎ廻る「志はつ山こぎ出て見れば」と詠める鄙ぶりはこれであるが、神輿を乗せた舟が周囲二十里もある豊後湾を漕ぎ廻はるとは思はれない。邯鄲の港と云ふのは即ち神宮寺浦の付近である事は明だ。
と論じている。なほ威徳寺にある老松は瓜生島にあった松を移したものである。