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項目 内容
ID J00006316
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/04
和暦 文禄五年閏七月十二日
綱文 文禄五年閏七月十二日(西暦 1596,9,4)
書名 〔豊国小志〕
本文
瓜生島
第一 周回及位置
瓜生島は大分郡の北##海中に横はりし一孤島にして、東西の長さ一里、南北二十町、周回三里余を有七、数十戸の人家及び三四の神社、仏閣ありたり。古昔之を跡部島と称す。上古大巳貴命、少彦名命と共に、此島に於て漁魚し給ひたる神跡あるを以て、此称ありと云ふ。
第二 歴 史
上記鈔訳の記する所に拠れば、##草葺不合尊より以下七十三代の間、代々天皇、皇国巡視の時、日向高知穂の大宮、豊国直入の新宮より出御して、此の島沖より御船に乗らせ給ひしと、上世の事遼#、其実を明にすること難しと雖ども、九十六代後醍醐天皇の御宇、建武二年、足利尊氏叛を図り、新田義貞の為め、敗れて西海に奔るや、当時船を瓜生島恵悦崎に寄せたること、史乗に載せたり。
第三 全島の陥没
此島、慶長元年閏七月十二日、地震海嘯の為め、崩潰して海底に陥没す。
第四 久光島の陥没
瓜生島の西南に近接したる久光島は、慶長三年七月二十九日、鶴見山破裂し、為めに、陥没したり。一説に、大雨甚だしきが為め、鶴見岳の東北麓なる、深淵倍す深くなりたるに、山顛崩落して其淵に入りたれば、淵水忽ち溢れて一大河流を成し、激奔して海に入りしより、速見郡朝見荘なる久光村遂に流没し、人畜死するもの多かりしといふ。尚ほ旧記の録する所に拠れば、二島合して一町十二村、住民の数一千余人、四個の神社と、三個の寺院とを有し、陥没の時、遁れ得ずして溺死せしもの四百余名、一本に八百七名とす。
(解説)
これは、明治四十四年十月、大分県が著作し甲斐書店の発行したものである。
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
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備考 [古代・中世] 地震・噴火史料データベースでは史料等級で分類しています。本データベースでは史料等級の低いものも表示しており、信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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