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項目 内容
ID J00006307
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/04
和暦 文禄五年閏七月十二日
綱文 文禄五年閏七月十二日(西暦 1596,9,4)
書名 〔金城秘鑑・智勇の巻〕○(写本・大分大学図書館所蔵)
本文
勇の巻
一、文禄五丙申年日本国中大地震ニテ一天下洛中洛外家不残皆々ユリ崩ス、伏見御城之内之家数一軒モ不残倒伏ス、人多ク死ス、其上東西南北国々シカイ浪アカル、豊後之沖之浜五百間悉ク震沈ス、則深海ト成テ跡モ像モナキ也、府内皆シカイ浪アカリテカサワダイノ野辺夕迄船ヲ乗ル、府内家皆海ニ流入テ人皆死ス、大野郡田中抔ハ夫程ニハ無之ケレトモ、紺屋大桶ニ一升アル藍共弐合三合ニユリコホス、人皆腰不立シテ遁回ル也、同十二月慶長ト改元ナリ
智の巻
一、文禄二年十一月秀成豊後国岡之城へ所替被仰付翌三年二月九日三木ヲ発シ三月二目豊州岡ノ城ニ入部ス豊州之内知行高目録乏(之カ)写
直入郡
一、五千四百八十三石二斗三升       朽網郷

一、五百二十四石四斗九升       和泉郷
…………
直入郡合三万四百十八石八斗
大野郡
一、四千百四十石六斗二合       宇目郷
…………
大野郡合三万九千六百六十四石九斗四升
大分郡
一、三百五十六石四斗三升、三佐、五ケ、村

一、百五十四石余 三佐郷

一、百八石余 海原村

一、二十三石余 仲 村
一、八石余 秋岡郷
大分郡合三百五十六石四斗三升
大分郡
一、百五石 今鶴村
外ニ三百五十九石二斗二升地震崩(・・・)
一、二百三十八石九斗 同 萩原村
外ニ六百五石三斗五升地震崩(・・・)
一、二千八百六十六石八斗 同 田北村
今市村分ヲ引残御蔵入ニ成合六万六千石也、右三郷地震崩ニ而今鶴村御差上今三佐ヘ替ヘ則三佐五ケ村之分ニ而書込之
右如本知被進之候、御仕置等可被仰付候、重テ御朱印申請可進之候、以上
加藤喜左衛門正次
在判
四月十六日大久保十兵衛
在判
彦坂小形部
在判
片桐市正
在判
中川修理殿

一、御家中譜代侍知行高此者
秀成摂州茨木播州三木ヨリ豊州岡之城入部迄分
…………
三百石         小林新助
三百石         柴山了可
三百石         菅野五右衛門
…………
右侍合百四拾二人知行高四万六千六百九拾石
一、豊州岡へ御討入之後知行拝領之分
如左
…………
一、慶長五年十月臼杵太田飛騨守との合戦のくだり
………此時中川平右衛門等七人今津留浦ニ着船ス。此今津留浦ハ則秀成船着也。秀成船着始メハ中島ナリシカ慶長元年十月大地震ニテ大波上リ港悉ク海中トナル。依テ当年十月ニ今津留ニ船着替ル。依之兼テ柴山了可子勘兵衛ヲ差置キ……
(解説)
「金城秘鑑」は智・仁・勇三巻から成っている。いずれも中川家関係のことを記述しているが、智・仁・勇各巻で記述の方法・扱っている内容が相違している。智の巻が最も詳細で中川家の中心的な歴史を記録している。記述は必しも年代を追っていないが、中心をなす智の巻の記載年号が寛政で終っているので、文化年間頃書かれたものと推定される。ここに掲載した部分に就いては、第一部を参照されたい。
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
ページ
備考 [古代・中世] 地震・噴火史料データベースでは史料等級で分類しています。本データベースでは史料等級の低いものも表示しており、信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 熊本
市区町村

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