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項目 内容
ID J00006303
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/04
和暦 文禄五年閏七月十二日
綱文 文禄五年閏七月十二日(西暦 1596,9,4)
書名 〔津山氏世譜〕
本文
一同月十三日昼頃より大地震ニ而、大波ゆり上、居宅海中となる。重成室出産以後六日目の事なれハ、血も未治らす、出生の小児を抱て、夫婦共に天井に上ル。天井にも水上るゆへ、脇指(わきざし)にて屋萱を切破て二人共に屋の上ニ上ル。系図并感状の箱と鑓を持て上ル。最早屋根も流んとする時に、兼而(かねて)船を作らんとて調置たる船板の七尋斗なるか流れよりけれハ、是を幸に弐人共ニ乗移り、鑓をも箱をも放さす持去れとも、引塩(汐)に沖に引出されて、幾度も波に打込れんとす。此時男壱人小船を漕来て、是に乗給へ、助け申さんと云。弐人なから嬉しくて、此舟に乗り移り、系図の箱も鑓も取乗て、南を指て漕行。暫く有て或ル渚に漕寄セて、爰(ここ)に上り給へ、と云置て彼(かの)男ハ見へす。此所も大波に崩れて、人家もなし。陸の方へ向て暫く行に、小き社有、此辺には人家もなく有ゆへ、此所ハ何といふ村ニ而、此社ハ何の神を祭そ、と問ハハ、爰ハ今都留と申所ニ而、社ハ天神なり、と申ス。扠ハ我を助けしハ此神ならんとて礼拝し、暫く爰に休ミ居てつかれをはらし、人家に入て休息す。村の者共此事を披露しけれハ、沖浜より吉右衛門・与右衛門・九郎兵衛抔(など)家頼の者共尋来ル。重成悦ひ、汝等ハ何とて助りたるそと問ハ、崩れたる家に取付て南の山際迄大波に打寄セられたりにより、則山に上り申て候、と申す。残りの者共ハいかに、と問は大方助り申て候、男は誰々、女は誰々こそ助り、又誰れ/\ハ見へす候、と云。武具倉并其外の倉々ハと問へハ、皆崩れ候得共、武具も金銀も其外の諸道具も失ハ致さす、と云。夫より迎の者共を具して其日沖浜に帰る。山際の少し残りたる土地に、先ツ仮屋を立て居る。此時、女四人・男弐人は不見。去ル八日ニ出生の小児も死ス。諸道具も能々(よくよく)改れハ大分見へす。
一 慶長元丙申年十一月、当夏沖の浜地震崩レニ付、
秀成様御船着として今津留浦御拝領也。
秀成様御上洛ニ付、未土地御受取無之、沖浜より往来して持。
注1 柴山勘兵衛記は九日、他の多くの書物は十二日。
2 中川家史料では沖の浜は今津留村沖の浜とあるが、これで見ると勘兵衛は今津留は不案内の土地らしく、今津留と沖の浜の距離が感じられる。
3 「島」の一部が五ケ月後も残っていたらしい。
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
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備考 [古代・中世] 地震・噴火史料データベースでは史料等級で分類しています。本データベースでは史料等級の低いものも表示しており、信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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