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項目 内容
ID J00006279
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/04
和暦 文禄五年閏七月十二日
綱文 文禄五年閏七月十二日(西暦 1596,9,4)
書名 〔大分市史〕
本文
慶長元年丙申七月(後陽成天皇紀元二千二百五十六年)、南日本の外帯太平洋沿岸一帯に大地震ありき、其の震央地方の中心点は紀州、土佐間の南海中にありて、震央線は西は大隅東方の海中より東東北の方向に遠江の沖合に至る一線なりき。本邦地震史上の旧記録に拠りて察すれば、此激震区域は日本西部の軸線に並行して東東北より西西南の方向には約二百里の長距離に亘れるにかヽはらず、北・中国の方には余り延長せざりしことは其の震原帯の西部日本の軸線に並行せるることと、本邦を構成する地質が大体其軸線に並行して震波のそれを横ぎりて伝播することを難からしめたるに起因したるなるべし。土佐にては激震後一時間乃至二時間を経て大津浪襲来し、津浪の時間は十二時間余に亘り、其の津浪往復の振動週期は約一時間乃至二時卅分間なりき。さて津浪は南太平洋沿岸を襲ひしのみならず余勢は紀淡海峡より大阪湾及び播磨に達し大阪川口は非常の災害を生じ、又一方は豊予海峡を荒し余波は伊予の西北岸及び長門、周防の海岸に達したると見えたり。土佐にては第三回目の大波は七八丈の高さに達したり。
我豊後湾の海岸地方にても激震ありて後約二時卅分間以上を経て、海水一旦遥か沖合に引き退き、海岸の干潟になりしこと数里、かくて約一時間半の後高さ数丈の大津浪来りしことは、左記の旧記にても知らるべし。斯くの如きは是れ海底地辷地震の定則にして、近くは明治二十九年の三陸地震津浪にても明かなり。此の地震と津浪とが同時に起らずして津浪の地震に遅ること一二時間の余裕あることは学理上極めて明白なる理由のあるありて、此の時間の差異あるは震域地方人民に裕に津浪を避難し得る時間を与へらるゝ不幸中の天賦なりと謂ふべきか、是れ当時我が瓜生島漁民及び勢家西大分地方の人々にして割合に溺死者の少数なりしを観ても知るべきなり。茲に又、瓜生島の陥落に就ては即ち我豊後湾は、南日本中央軸線の北に並行せる地溝帯の陥没区域に当れり。此の地溝帯の裂罅に沿ひて第三紀(地質時代)の噴出をなしたるは即ち阿蘇火山脈にして湾頭に聳立する鶴見・由布の峻岳は、此の地溝帯中に噴起したる山塊なりとす、斯かる地質上の関係ある豊後湾深海部の南の縁に露出し、而も粗鬆にして固からざる洪積層によりて成りしと思はるゝ瓜生島が、一朝西部日本の軸線に並行せる大地震に遭遇して、地盤を辷らし而も大津浪に洗はれ、海底に散乱し潮流に搬ばれ尽し、痕跡もなく消え失せし理由は地質学者の概ね一致する瓜生島陥没説にして敢て鬼神の説を要せずして充分なりとす。
(第三節 府内の震災と瓜生島の陥没)
前項により慶長地震の震域並に津浪の区域は略ぼ分明なりとす。猶ほ京都に於ては方広寺の大仏殿破壊したる記録あり。
府内に於ては元年七月十二日未上刻(午後一時頃にして或は申の刻即ち四時とも称せり)百雷の一時に落つるが如き鳴動南方と覚しき処より響き渡ると共に大地震起り、建築物を破壊し、土地に裂け目を生じ諸処山崩れありたれども須叟にして止みたれば稍々安堵せしが、同日酉上刻頃(午後五時頃にして或は申の刻とも云へり)に海水大に鳴動せり、すは津浪の前徴なりと誰呼ぶとなく一般に伝播し、又種々の迷説起り府民再び驚愕して、取るものも取り敢ず西東に走り南に馳せ山野に遁る、特に海岸の住民は勢家町の地比較的高きを以て此処に避難する者多く、瓜生島の漁民も早舟にて漕付け来り、又勢家に一禅寺の法蔵寺(今の県立徒弟学校の敷地内)と称するがありて其境内にも群集したり。暫くして河川、井戸等の水はもとより時ならぬに海水遠く沖に退き、干潟となること数里の遠きに達し、瓜生島との間は徒渉し得るに至りしが、半時ばかりして忽ち山の如き怒涛漲り起り、瓜生島を一なめにして進んで府内の平野を襲ひぬ斯くの如きもの一落一漲正しく週期を繰り返し夜に入りて止みたり。
雉城雑誌云、「(前略)府中及び商家近里の民悉く流没す独り同慈寺(後の浄安寺)の薬師堂一宇巍然として存在す、又奇とすべし、其の余の仏殿堂宇(府内の各社寺を指すか)、傾斜す、古老の話に此時涛当寺(同慈寺)、菅神廟流失所在を知らず、又其の大殿(本堂の謂)の前に旅船一艘十反帆漂着す、大豆を積むこと半ばにして人なし、且長浜大明神流失す、又此時瓜生島も同時に沈没す、死を免るゝもの纔に七分溺死七百八人、或説には死を免るゝもの五十余人溺死七百人と云へり云々。」
此の時領主早川長敏は、助命の為め島民に衣服及び米銭を扶助し、勢家の地に仮小屋を建てゝ罹災民救助につとめたりと。
諸種の聞書、旧記、古老の物語を記録したるもの等を綜合すれば、瓜生島の陥落は事実にして即ちもと大分郡の北豊後湾内に横はりし一孤島にして、東西の長さ約一里余南北二十町周囲三里余を有し、数百戸の人家及三四の神社仏閣ありたるなり。古昔之を跡部島と称す、こは上古大巳貴命、少彦名命と共に此島に漁し給ひたる神跡ありたるを以て此称ありと。
上記鈔訳の記する所に拠れば、##葺不合尊より以下七十三代の間代々の天皇、皇国巡視の時日向高千穂の大宮、豊国直(トヨクニナホ)入(リ)の新宮より出御して此島沖より御船に乗らせ給ひしと、想ふに上世の事遼#其の実を明にすること難しと雖、九十六代、後醍醐天皇の御宇、建武二年、足利尊氏叛を図り、新田義貞の為めに敗れて西海に奔るや当時船を瓜生島恵悦崎(・瓜生島の図参照)に寄せたることを史上に載せたり。
雉城雑誌云、此島一名沖の浜とも云へり、東西卅六丁、南北廿一町余、街巷三筋東西に開き、南を本町中筋を裏町北を新町と号し、家数凡そ千余軒島中威徳寺、住吉、菅神、蛭子(島の東部)及び島津勝久の居館等あり、此地旧府の海口にして諸州の舟舶日夜輻するの大港なり、又云、天正十四年長曽我部元親戦争利あらず府内に退き此日沖の浜より舟に取り乗り伊予の日振ケ島に帰る云々、又古老の伝説に、陥没当日のことを云ふに島の西(菊南云東か)の方に祭る蛭子神の面の赤くなる時は、此島漂没すと、此日或る無頼の悪少年ありて面に丹朱を彩り、戯れ欺かんとす、、果して島民大に怪み、水害を避けんと欲し東西に奔走す、故に溺死するもの他に比して多からざりきと、時に領主早川氏は島民に衣服及米銭を与へ、勢家に仮屋を設へ此所に移り住ましむ。故に旧名に因んで其処を沖の浜町と号せり云々。
茲に瓜生島陥没前の地名の一として附記すべきは所謂函#湾なる称呼なり、世人往々今日の公称湾名たる別府湾(豊後湾は公称地名にあらず)、全域を以てやがて函#湾と思惟するは是れ僻事にして、其湾の限定区域に就ては編者も亦鶴谷外史の考証に賛同するものなり、氏は其著豊後史跡考に論じて曰く、
鶴谷外史云、函#湾とは今の蓑崎、関崎より以西の内海を指して呼べるが如くに思ふもの多けれど決して然るに非ず、函#湾とは瓜生島と神宮寺浦との間に在りたる一部分の名称に過ぎざりしなり。決して豊後湾若くは別府湾抔いふが如く、内海全部を言ひしにはあらず、函#の称呼は元、明(ミン)の#林(グリ)なる者が下せし由にて国志に記す所下の如し。「天文中、明人#林者、航海来寓臼杵、屡遊覧干此地、終因其形状目為函#海云々」、と、然らば#林が##なる称呼を下せしは瓜生島の未だ陥没せざる以前(菊南云約五十五年以前)なり、而して生瓜島の図中にも函#港とて、前述せる如く瓜生島と神宮寺浦との間に函#港を載せたり、又三浦梅園翁の豊後事跡考中住吉社の事を記す条に六月(みなつき)の祓会(はらゑ)には神輿を小舟に乗せ奉り、十二人の神楽男、管絃を奏し、八人の舞姫、袂をひるがへし、邯鄲(函#)の港を漕ぎ廻る「しはつ山こき出て見れは」と詠める鄙ぶりは是なり云々、と見えたり、神輿を乗せたる舟が周囲二十里もありぬべき湾内を漕ぎ廻るとは想はれず、邯鄲の港と言へるは、即ち神宮寺浦の附近にありし事知るべきなり云々。
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
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備考 [古代・中世] 地震・噴火史料データベースでは史料等級で分類しています。本データベースでは史料等級の低いものも表示しており、信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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