(第九章 編年史料)
慶長元年七月大地震あり、扇山滑りて別府湾に突出す。海水溢れ瓜生島為に崩潰して海底に漂没す。同島は大分郡の海岸を距る十九町の所に在り。東西一里、南北二十町、戸数千余戸、一街十二ケ村ありしが、此災没滅して死者八百余人を出せり。
豊後遺事、慶長元年秋七月十二日地震、海水溢れ沿海の地尽く其災を#る、瓜生島亦沈没す、瓜生島は大分郡に属し、同郡北の海中にあり、東西一里、南北二十町余、速見郡を距る十九町、居民千余戸、人口五千余あり、此災死者八百七人、初め早川長敏の府内に来るや茅屋を沖の浜に構へ、瓜生島の余民を置き衣食を散与し、島民頼り以て生を得。
瓜生島之図附記 大分町幸松謙治氏旧蔵、慶長元年七月三日地震、同十六日十七日地震、又二十三日より二十八日迄地震尤動事大小一日に五度より十度に至る、云々、四十六人立ち退きて荏隈に仮小屋を建る、云々、斯て其月も過ぎて閏七月に成同月四日五日地震、右に付是迄恐怖而逃退者多し、然るに閏七月十一日十二日至口未刻より大震小震不知数此時に当て豊後国総て大地震にて山崩、川溢れて高崎山木綿山鶴見山霊仙寺山頭巨石悉落、其石互に磨て出火等天災在之由、殊に瓜生島も格別之大地震にて、島人恐怖すると言共十二日申の刻に至、地震暫止、近村近里の人民大に喜安心而浴る在、食る在、末食る在、時に海中大に鳴響、諸人甚驚奇異の思を為し東西に奔走して又々島民恐怖するに大地震と成、云々、老若男女泣きさけんで各小舟に乗も在、又は海を渡逃るも在、此時村中の井水悉尽き、海中湖の干事不常、海底五尋之岩砂顕れ汐干也、然るに海底大に島響百雷落る如し、洪涛忽起り来て洋溢、府内之近辺之邑里大波至る、海上を見渡せば瓜生島十二村只一面の海上と成瓜生島の姿なし云々。
慶長二年七月 地震あり、鶴見岳崩潰して谷を埋め、決水海に入り、為に久光島流没して死者四十余名を出す。同島は別府湾の西南隅より東方に向ひて海中に突出し、瓜生島と相並び風光絶佳の地にして、大久光、小久光の二村より成り、戸数七八十戸を有せしが、此災全く島形を没せり。
豊陽故事談 百六代後陽成天皇の御宇慶長元年閏七月大地震の為め、泉泓悉く潰廃す、同二年七月又地震海嘯のため久光島陥没し、温泉薬師堂皆其所在を失す。
豊府最要記 慶長二年七月二十九日大雨甚、因之、鶴見岳東北麓深淵水倍常、又山頭崩落埋其深淵過半、是故淵水忽溢出、成大河急流入巨海、時ニ速見郡朝見在久光村流没、人民死者四十余人也。