かくして修築の成った長島城も天正十三年(一五八五年)十一月二十九日の天酉地震で、本丸、多聞などが倒潰し、石垣のみ残ったようである。天正十九年(一五九一年)に、秀次が石垣、塀、矢倉などを修復したことが長島細布に記されているが、二ノ丸の塀も無く、竹薮が生い茂り、城門の扉もなかったようで、元の半分にも及ばなかったようである。
古来の伝承に本城を「二重城」と称しているが、この天酉地震で域の地盤が沈下し、元の結構の上に更に築城したので言ったのであろう。現に長島中部小学校敷地の古井戸の底から、巨材を横たえ巨石を並べた遺構が発見されているが、或いは旧遺構の石垣の胴木ではないかと思われる。
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良尚も明暦年中に城郭を改修している。長島記、長島細布、長島誌の記録を総合すると「先ず黒門を重修している。黒門は本丸の正南にあって、初め漆を以てその柱および扉を塗ってあったが、天酉地震後漸く旧観に復した。同じく天酉地震で黒門前の巽櫓および塀が台ばかりになっていたのを再営した。また搦手門西の八幡社の傍に木戸を構えて番人を置き、この内にあった民家を外に移転させた。搦手門外橋の所より北への小道三の曲輪堀の中程より西への小道を、木戸を構えた後はこれらの小道を塞ぎ道一筋に整理するなど、主として黒門前の修復および北西搦手門方面の整理をしたのである。尚下屋敷に月法堂、達磨堂の二茶室を設けて風流茶事をしている。また三ノ曲輪に茅葺長屋二棟を建てて、大小小姓の独身者を住わせたことは、注目に価する施設である。下屋敷内の勘定所、番屋、鷹部屋の移転、長蔵一棟の新築など城内建造物の整理も行っている。
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第15表長島輪中新田開発表
新田名、開発年代、備考、
(中略)、、、
長十郎起、寛永四年(一六二七)、平方の農民西村孫左衛門が天正地震の亡所を再開発、平方地先、現在同字のリの割り地、
(以下略)、、、
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加路戸・見入輪中の開発—十七世紀後期の開発
その後天正十三年(一五八五年)の天酉地震のため、土地が湧没して亡所となった。
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(杉江・長禅寺)
しかし長禅寺が天酉地震で転退し、観音堂一宇が杉江村に残っていたものである。
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また砂宮神というのがあるが、この神は水神信仰で紀州海岸に多く祀る。天酉地震の春に水難除として祀ったものである。
地蔵堂があるが、本尊は定朝作の地蔵菩薩座像と伝えているが、作者の真偽は不明である。永禄・元亀の頃(一五七〇年前後)までは、善美をつくした堂で門前も繁栄していたが、天酉地震で殿堂もことごとく大破してしまった。
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小島村の外に篠橋があった。元亀天正の兵乱に太田修理の守った城砦のあったところで、落城後は天酉地震、洪水などのためその度毎に欠損して小さくなり、形ばかり残っていたものを、小島村の農民が起畑としていた。
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当村に上道場(村の西端)というところがあるが、これは安養寺の古屋敷で、安養寺の祖山内七助は元亀天正の兵乱で、願正寺の配下で働き、後剃髪して念順と号した。天酉の地震で堂屋倒壊し、安養寺(長島六坊の一)は鈴鹿市箕田へ転退して寺基を定めている。中道場の地は東光寺の屋敷跡である。東光寺も天酉の地震によって美濃国へ転退している。なお字名に東光寺川田というのがある。下道場(村の東端)は長次郎屋敷という。これは中島寺(はじめは善正寺という長島六坊の一)の屋敷址で、その祖水谷兵右衛門は、山内七助と同じく、元亀天正の兵乱に願証寺の配下として働き、後剃髪して玄勝と号してこの地に道場を設けた。なお水谷兵右衛門はその後織田信長の石山本願寺攻めに参加し、石山本願寺勢として天正七年九月二十六日に広芝口で戦死している。下記の感状が中島寺に残されている。
水谷兵右衛門尉進退之事、別而被抽戦功之儀、上様事之外御感之所、無其詮去月二十六日於広芝口討死之段不及是非候、然ハ彼跡目一円不弁之儀ニ被聞召及候之間、為跡目相立候様急度可被励馳走事肝要候、可被仰出候
恐々謹言
天正七卯十月五日
按察御橋
道 明(花押)
水谷兵右衛門殿
御門徒衆中
長島六坊の一であったが、天酉地震で美濃国中島村へ転退して、寺号を中島寺と改めて、寺基を定めている。
理衛門屋敷は善光寺址で、この善光寺も天酉地震で亡んでいる。(一説に善光寺坊主は震死したとも伝えられている)
思うにこの狭い村の地域に四ケ寺も並んでいたものが、一瞬の地震のために全部潰滅してしまった様は、その外農家の潰滅も多かったであろうか、この地域の土地形成と考え合せて、慄然たるものがある。以後この村は全く寺のない農村となってしまった。
当村の字名に上記の上中下の道場、善光寺、東光寺川田の外呑我(どんが)堤、小田(しょうだ)、南川原、長尾、狭畷内、島田などが長島記に記されている。
花も実も我まま村の寺の跡かな
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汰り込み——小島新道の元稲荷社付近である。中汰り込みは元稲荷社地より一町余り西方の田圃、助右衛門動込みは助右衛門という百姓の家の汰り込みで、何れも天酉地震の際に動込んだのである。
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善田新田と云う有り。是は寛永十六年殿名村西外面村の農夫開発するなり。予曰く、当所元亀天正の初め迄は出張の城地あり。繁栄地にて即ち伊藤修理住此所。然るに天正十三年の地震一時に泥土となる士農共に亡失す。其後四十余年を経て新田となる。昔の十分の一なり。又曰加路戸の肩の西にあり。武兵衛新田と云う。猛水の為欠失す。今は大河となる。
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天正十二年(一五八四年)小牧・長久手の戦に、長島城主であった織田信雄が、当社に戦勝祈願をして出陣している。そして同年三月三日に賽謝のために冑一領を奉納している。天正十三年(一五八五年)十一月二十九日のいわゆる天酉大地震のために、本社も大破したので天正十六年(一五八八年)に再修が行われている。
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又木村高辻のうち押付村に出るところの左に日高日社(祭神天照夫神)があった。町屋、又木村の産土神として崇敬していたが、天正十三年の天酉地震で、社頭が顛倒したので、御神体を西外面村八幡杜に移した。故に町屋、又木村は西外面八幡社を産土神とするようになったのである。この社地には寛文の頃までは松樹など少々あったという。
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下坂手村神明社
祭神 天照大神
元和元年(一六一五年)五月下坂手村一番割の地に勧請した。元和元年四月の大坂夏の陣に当村から役夫が多く出陣し、五月八日の大坂城落城により無事帰村したのを喜び、村中こぞって神明社を勧請し産土神として崇敬したと、記録されている。
当村にはまた石神(御砂神)というのがある。これは「水戸のみつばの女なり」とあるが、川の神で、当地が木曽川の川筋で流水が渦巻いているので、天正十三年(一五八五年)の天酉地震の春に、下坂手村一反田の地に勧請奉祀した。この社と同祖の川の神は桑名領内にもある(桑名市深谷の御砂稲荷か)
この社は阪手村の古社ではあるが、下坂手神明社の摂杜として崇敬されていた。