(藤林明芳著 日本古城友の会 昭和50・9・5 一二−一三頁)
織田信雄、豊臣秀次時代の長島城
滝川一益、織田信雄によつて修築なった長島城も、天正十三年(一五八五)十一月二十九日の天正の大地震で本丸、多門など倒潰し漸く石垣のみが残つたようであるが、天正十九年(一五九一)関白秀次に命じて、石垣、塀、矢倉等を修復した(長島細布 第二章28)
古来の伝承に本城を一に二重城と称しているが、この天正地震によつて本城は地盤沈下し、再修補によつてこの結構の上に更に城郭を構築したので二重城と云つたのであろう。
現に城址長島中部小学敷地の古井戸の底から巨材を構えた巨石を並べた遺構があつたというが、或は当時の遺構ではなかったかとも思われる。
菅沼氏長島城を修築する
天保年中松平定政の公府への訴状によると、
「天正年中地震殿守顛倒、其余大破壊而後、雖有再制僅不及其手爾来城主力乏而代々零落、二ノ丸塀亦無何竹薮生茂、然此城古来月無扉門、於地方旅人夜日往還元」などを以て見ると、定芳の長島城修復は根本的なものでなかつたようである。