(蟹江町史編さん委員会編 愛知県海部郡蟹江町 昭和48・3・25)
信雄が長島城から清洲城へ戻ったのは、大震火災で長島城が崩壊してしまったからである。『当代記』第一章18巻二によると、天正十三年の十一月二十九日子刻(ねのこく)(午後十一時〜午前一時)に、北国から関西の広大な地域にわたる地震があり、諸国に山くずれや地われがひどく、人馬の被害がおこり、この長島では陥没のため川になり、城山の家屋もたおれて火災がおこり、茶湯の道具をとり出した者が、あとで褒美をうけているといった有様であった。三河深溝(ふこうず)(愛知県額田郡幸田町深溝)の領主松平家忠の『日記』によると、亥刻(午後九時〜午後十一時)というから、両者から判断すると午後十一時ごろであろうか、大地震があって、それ以後毎日、翌年の二月十一日まで連続七十二日間にわたり余震があった。この地震は大地震というだけでなく、まれにみる長期地震でもあった。この大震火災を機として、翌天正十四年からは信雄は清洲城に戻ったようである。
信雄が父祖以来ゆかりの深い清洲城をはなれて、長島城を本拠としたのは、尾張一国の領主から、尾張・伊賀・北伊勢五郡の領主になったので、その中央にあたる位置という理由だけでないことは、今まで述べたところで充分であろう。
蟹江城は河口港をひかえているだけでなく、蟹江川その他の近隣諸河川で尾張内陸平野部に通じている地点で、長島城に近接し、また清洲城と長島城の中間にあたる位置でもある。蟹江城が長島城と敵対関係であれば、「向城(むかいじろ)」・「付(つけ)の城(しろ)」として長島攻撃の前線拠点となり、味方関係であれば、「端城(はじょう)」(支城)として、本城とともに唇歯輔車の間柄になった。蟹江城自身は単なる端城ではなく、独立の本城として自らも支城をもつほどの城でもあった。大野城(海部郡佐屋町大野)・下市場城(蟹江町蟹江新田下市場)がその支城にあたる。(五三−五四頁)
堤普請は火災による荒地復旧のためである。天正二十年八月二日付けの『津島神主領目録』には、「ゆりこミ」(地震による陥没)でなった永荒地が九十五町六反八畝二十六歩(約九五〇ヘクタール)あり、三十町三反四畝二十三歩(約三十ヘクタール)のうち、相当数の「はたふけ(畑腐化)」がみられるから排水が極度に困難な状態であったことが知られる。これは天正十三年十一月二十九日の大地震と七十日以上におよぶ余震の結果であるが、それにくわえて天正十四年六月の木曽川大洪水の被害もあった。これは河道を変え、尾張の葉栗・中島・海西の三郡を分断し、美濃との国境を変えるほどの大洪水であった。当時の領主であった織田信雄も翌十五年正月ごろ、給人たちに堤防の修理を命じているが、大規模な徹底した修復でなかった。(一七三−一七四頁)
天正十三年十月二十九日大地震により大洪水おこる。(五一七頁)