「(前略)天正十三年酉十一月二十九日亥子の刻の大地震にて、内ケ島氏理の城地ゆう崩し候急難に東常尭、落命卒去□云々。」
これによってみるに向鷲見城主鷲見物保は此の時遠藤方に味方しているが飛騨勢も何回か進出しているので鷲見郷も相当戦禍をうけたことは、言うまでもない。この天正十三年の大地震というのがかの有者な飛騨の帰り雲(ヽヽヽ)、郡上西洞村の折立(ヽヽ)、明方村のみぞれ(ヽヽヽ)の三ケ所一時に亡びた大災害であって荘川郷黒谷の池仏様(ヽヽヽ)も此の御難にかかられたのである。この時の大地震は翌十二月二十五日まで震(ふ)るい止まず、帰り震(ヽヽヽ)では城主内ケ島氏理以下死者五百余人といわれた。長滝の長滝寺では一山の衆徒をあげて日夜読経して平安を祈り参拝者も多かったが近郷は被害が少なかったという。
【西洞村折立の長者】天正十三年の秋、飛騨国白川郷帰り雲の城主内ケ島氏理(うじただ)は家臣と共に村の猟師を勢子につれて一行数人が大白川谷へ猪(いのしし)狩りに出かけた。終日獲物(えもの)もなく其夜は大白川湯の辺に露宿して翌日も獲物の見当らぬままについに別山(べっさん)の頂上近くまで登ってしまった。今日も鳥一羽とれず一同力をおとして家に帰ろうとして不図(ふと)思いついたのが頂上社殿に安置してある黄金仏のことであった。これは平重盛が寄進したと伝えられる黄金の聖観音像(しようかんのんぞう)である。これをおろして一もうけしようと金体に手をかけたがなかなか動かない。勢子どもが鎗の石づきでこぜたりしたがビクともしない。一同断念して「明日は別山谷(ヽヽヽ)で狩ることにしようと尾根づたいに大日ケ岳を経て鷲見郷西洞村へ下山した。麓の谷間へ下ると短かい秋の日はとっぷり暮れてしまった。あかりの見えるのをたよりに一軒の家にたどりついて宿を乞うと(旧記には「埴生(はにう)の小屋あり。これ釜ケ洞の与右衛門たり」とある)。此の南八丁に長者の家があるからと案内されて一行は折立長者弥左衛門の家へ入った。夕食後別山頂上での話をしたところ台所で聞いていた老婆は「そんなこと何でもない」とつぶやいた。そこで老婆にたずねると「神様のたましいを抜くのじゃ。これをかぶせなされ」といって自分のユモジを解いて与えた。翌朝一行が出かける時老婆は「分けまえのこと大丈夫じゃろうな」といって指でまるい形をしてみせた。そして昨夜つくっておいたイリマメのはいった袋をわたした。
一行は足どりも軽く、いつしか別山の頂上についていた。老婆の数えた通り金体はやすやすと動かすことが出来て、一たん白川村へおろし当時美濃国で名高い明方郷のミゾレの鉱山に持っていって熔鉱炉(ようこうろ)に入れて熔(と)かすこととなった。夜昼休まず、七日七夜の間タタラ(ヽヽヽ)にかけたが少しも熔けない。七日目の真夜中(まよなか)天正十三年十一月二十九日(一、五八五年)亥子(いね)の刻一大音響と共に白山火山が大爆発(ばくはつ)して、大地震が起り折立(ヽヽ)、ミゾレ(ヽヽヽ)、帰り雲(ヽヽヽ)の三所一時にゆりくずれ、大洪水さえ出て折立長者の一統が滅亡した。この時、大水で長者の馬がどろ水におし流されて淵にうず巻いていたというウマノマキ(ヽヽヽヽヽ)の跡も長者屋敷の下に残っている。イリマメのタタリで折立には豆がみのらないなど明治のころまでいわれたものであった。(なお折り立長者のことは第十二編二章村の伝説のところにかかげることとした)
【ミゾレ鉱山のつぶれたこと】ミゾレでは鉱山のヨウコウロ、その他の設備をはじめ、飯場(はんば)、鉱員の住宅は勿論地元の部落もほとんど全滅した。山崩れで、ミゾレ川がせき止められ東池(ヽヽ)と西池(ヽヽ)と二つの池が出来た。これが名高いミゾレ(ヽヽヽ)が池である。
大地震の時七日七夜が間、天が暗がっていたというので今もナナクラガリ(ヽヽヽヽヽヽ)など地名が残っている。
【黒谷の池仏様】天正十三年八月金森長近は飛騨の三木氏を討つため荘川郷へ進出したことは、次の第三節で述べるが、此の時荘川郷黒谷村の浄念寺では寺宝の本願寺八世蓮如上人染筆の真草二幅(しんそうにふく)の六字名号並に九世実如上人御裏の阿弥陀如来一幅を戦禍をのがれる為め郡上郡気良の荘、ミゾレの道場へ預けておいた。ミゾレは荘川との間にエボシケ岳の険をへだて、明方川の奥地で最も安全であると考えたからである。天正十三年十一月二十九日白山大爆発の大地震によってミゾレが滅亡し道場も山くずれのためおしつぶされて浄念寺の三幅の仏も、この難にあわれた。そこで浄念寺の第十世道隆は仏を求めて一百二十日の間、日参して山くずれの跡をさがし求めた。天正十六年四月二十日にふしぎにも三幅の仏をミゾレの池から上げることが出来た。今は池仏如来といって寺の宝物となっている(浄念寺縁記による)
【帰り雲城の全滅】帰り雲は白川郷の保木脇と木谷部落の中間にあって当時は内ケ島氏の城下町として相当繁栄していた所と伝えている。城は荘川に面した要害にあったが大地震と共に対岸の猿ケ馬場山(標高一、八二二米)の西の尾根が崩壊(ほうかい)して長さ千数百米にわたり土砂が押し出し幅百米の荘川を押し切り対岸の城地並に部落はまたたく間に壊滅(かいめつ)して内ケ島氏理も一族と共に亡びてしまった。押し出した土砂はさしもの荘川の水をせき止めて後久しく湖のような淵をたたえていたという。対岸山崩れの跡は三百七十余年後の今も長さ千余米幅七百米の無毛のハゲ跡を残している。郡上八幡東殿山の城主であった東常尭も内ケ島氏と運命を共にしてここに亡び郡上回復のことは遂に失敗に帰した。
天正十三年十一月二十九日夜の白山大爆発による大地震は飛騨、越前、越中、加賀、美濃等数ケ国の地が大いに震い白山の山形も相当変化したもののようで、頂上から北東帰り雲の裏山つづきに天に向って倣牙(ごうが)の如く突きそゝる三方崩(さんぽうくずれ)という一高峰が大崩壊(ほうかい)したのもこの時であった。