(第一章・第一節)総説
(前略)
木村の加路戸は天正十三年(一五八五)の地震で亡所(ぼうしょ)となったが、戸数八百戸余りあって、織物の産地として発展していた記録がある。
(第一章・第二節)字の開発史
一 加路戸
ところが天正十三年酉年(一五八五)十一月二十九日の大地震で、加路戸は一瞬泥土となり、民家は全部倒壊し、人馬も多数死傷し、亡所となった。(これは長島細布から抜粋したものを更に抜書したものである。)
また、次のような記録もある。
或問加路戸島当昔繁花市中也庭訓往来(玄恵法印作)所謂尾張八丈則従此地所織出島紬也此説然乎。曰予未聞中古於尾張有織出紬絹所猶於近世然則為是乎蓋曰伊勢切付(往昔於伊勢国川曲郡河原田村所作切付時人好之云爾至于今雖出駅駄具、竜、有、夫不用之)之類款
野翁伝曰加路戸土民称加路戸一千軒頗繁昌之地而売買諸職居住于此為織染之家業者亦許多也天正十三乙酉年冬十一月廿一日湧没地震後諸民悉所々分散為織染者末孫多今居住于濃州岐阜勿為其家業云云。これは「勢州長島記附全、享保十七壬子年(一七三二)七月廿三日写之」の一部抜粋である。原文は松平忠充を、君と言っているところから増山氏襲封以前の家臣で元禄十五年以前に著したものと考えられる。(なお、元禄十三年に著したという。)
注、本文中「切付(きっつけ)」とあるは馬の鞍の下に敷く物である。
(中略)
2 浄安寺と言って親鸞聖人末葉の寺があったが、天正の地震で当地が亡所になったので濃州岐阜に趣き、一宇を市中に再営したという。なお、諸民は皆分散して、その織染をなす者の子孫は濃州岐阜に居住して、その家業を営んだと言う。
3 (省略)
4 加路戸氏神の札によれば、この地は元唐戸と称し、天正十六年(一五八八)の震災で亡所となり、後七年、文禄三年甲午(一五九四)改めて加路戸新田を築いたという説がある。
5 (省略)
6 過去の加路戸新田は永禄二年(一五五九)に開発され、民家八百戸余りあって、天正の地震(一五八五)で亡所となったとあるが、これによると開発以来わずか三十年余りで八百戸余りに繁栄したことになる。
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四、諏訪神社 加路戸
由 緒(中略)
天正十三年(一五八五)十二月二十五日(一説十一月二十九日)地震が起こり、加路戸が亡所となったので、今の桑名市の西汰上に移住し、出家して一寺を建て了厳寺と号し現存している。