中河原村より北東方畑中に山砂小高き所字は竃のこしと言ふ、昔塩浜の趾なりといふ、夫より東方海に近きあたりを安濃の湊田、安濃の松原の古地とも指すへき乎。
中なハ村 中河原村より南方今の権現社の筋海中に入り無里、享保中頃迄は干汐には、海中に此あたり人家の在りし所ならんなとおぼしき物所々に見及ひたりと中河原村一老人の物語りしを#に記す土人の話なれは其の由来を明らめ得す後考或は此松原はもと津の町と海との間にいと古りて見へけるを後土御門院明応八年六月十日の大地震に破却して城下松原ともに十七八町も波に沈めりと、されは今も観音前町通りを高町といふ俗諺残れり、土俗海陸を「オキ」といひ「タカ」といふ。