会下之島
(中略)
林叟院開創記に依れば、今から四百八十二年前即ち後土御門帝の文明三年(西一四七一)で境内は今の波打際より五丁程の海中にあり、現在の汐除堤防の側(乙ケ丘)に三門田と称する字があり、現海洋道場が第三門になっていたものである。又林叟院開創当時の波打側は、寺院を海岸直ぐ近くに建立するとは考えられない故まだ遥か先であったに違いない。海辺より四丁程沖合、約一畝四方に四基の大柱石が波澄み底が眺められる秋風穏かな日には発見出来るが、この石は第一門である。
林叟院が現在の坂本に移ったのは明応六年(西一四九六)であったが、その翌年即明応七年八月八日より大雨初り同二十五日大地震大津浪来り民家五百数十戸波涛に没し溺死者二万六千という大災害をうけ、その寺跡は遂に海中に没した。被害は田中領駿遠両国合せて三十七ヶ村であるというから言語に絶する大きなものであった。
(都司注)同書二百十五ページ元禄十二年八月十五日の風津波の説明にも「田中領内駿遠両国にて津浪に逢った村数は三十七ヶ村」とあり、次の三つの可能性が考えられる。すなわち、A明応地震津波元禄風津波とも田中領三十七ヶ村に被害が出た。村数が一致するのは偶然である。B元禄風津波に三十七ヶ村の被害が出たが、それが明応の津波によるものと誤り伝えた。C明応の津波で三十七ヶ村の被害が出たのを元禄風津波によるものと誤り伝えた。
元禄の風津波の時三十七ヶ村に被害が出たというのはその遭難者の一人とおぼしき富田五郎右衛門の文書の写本に現われるのでCの可能性はうすいと考えられる。
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明応七年(西一四九八)の津浪は林叟院創記によれば溺死者二万六千余人とあるから古来未曽有のものであったことが推測される。
駿河記には明応年間会下島並びに小川本郷の地田野辺三ヶ名の辺まで海水湧き狂涛入りし、と記されているが同地不動院裏の田中の小祠のある森は此の時大舟の親柱が漂着した跡であるとの言伝があり又一区公会堂裏の芝原の小字名も、此の時浪の為荒れ果てて芝原となった為名付けられたと云われている。此時遠州では浜名湖の口が切れて今切が出来淡水変じて海水となり、其の国名となる遠き淡海国もその意味を失って終った。
伊豆の海も又暴溢し仁科郷、村害を被ること最も甚しく波涛の陸上に上る事凡そ十八丁、中村の寺門以下園皆浸水せり豆州去(ママ)稿)とある処を見ると震源地が駿河湾より遠州難にあったことが推測される。
この津浪に関連して、林叟院(口碑林叟院と明応の地震参照)の坂本移転、教念寺の創立」小川地蔵尊の漂着等のことがあった。教念寺の創立は寺記によれば天文元年(西一四六六)となっているが駿河記其他には明応七年秋観誉上人京より東へ下る途中益頭郡海立数百人の溺死する者を見、此郷に小院を建立しその屍を集め骨堂を建て亡霊の供養を修せられた、とある。
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豊栄長者(長谷川次郎左ェ門政宣)
明応六年異人来り天変地異を予言したので豊栄再び賢仲禅師と謀って林院を高草山坂本に移した。(以後林叟院と改寺名)翌年八月大津浪があり溺死する者二万六千、会下島林叟院跡は海底となった。翌年林叟院の伽藍完成し、政宣は永正十三年六月朔日八十七歳にて没した。法名林叟院殿扇庵法永居士と号し林叟院に葬る。