「紀州加太の史料 一」、文化5 仁井田道貫筆 利光平爾氏所蔵、
一問、加太は潮干の名所といふはいかなる以の候哉。答、往古の加太は今の在所より五六町も東にて、今の在所は遠干潟なる故潮満来れは海中となり、干れは干潟と成故潟海浦とて其景色異浦に勝りたりしより今も賀多、住吉、品川、土佐は潮干の名所日本四ケ所の内にて候。又問ふ、其満れは海中と成し所いかゞしてせき留潮の来ぬやうには成候や。答、後醍醐天皇の御宇北条高時の亡る比は前相にや諸国に天変多かりし中に元弘元年の七月三日大地震有て紀伊国千里浜の遠干潟俄に陸地に成事廿余町と太平記にも記せるは是也。千里浜は俗に云二里か浜の事也。