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項目 内容
ID J00000167
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
0684/11/26
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
0684/11/29
和暦 天武天皇十三年十月十四日
綱文 天武天皇十三年十月十四日(西暦 684,11,29)
書名 〔土佐古今大震記〕
本文
土佐国中之伝説
白鳳大地震ハ 今を距ること 実に一千二百余年前の変災なれば 其詳しき事情は彼の日本書記以外には更に考ふべき確実なる記録なし 唯其中 国中の伝説にして真に近しと思はるゝものを記して後に示さん
国中一般に伝ふる所
白鳳地震陥没の地面は東の方室戸岬より西の方足摺岬に達する黒田郡と称する一円の地方なり
国中□部に言伝はる所
白鳳地震陥没の地方は 室戸岬により足摺岬に達する一大地面にて 黒田 黒土 上鴨 下鴨の四郷に分れ 石高二十六万石程の地なり
高岡及吾川両郡南部海浜に伝ふる所
昔 大良千軒 小田千軒なといへる繁華なる町ありしも
白鳳地震の時 海底に陥没せり
高岡郡多之郷村 鴨神の伝説
昔 白黒の前 須崎の海上に大坊千軒と称する繁栄の浦あり 一日 其の処の漁夫 浜辺にていと珍奇なる人魚を獲たりしか これを傍にて見ゐたりし 此の浦の一少女 何心なくねぶりたりしに 其少女夫よりきはめて健かに成長して更に病むこともなく 非常なる長寿して 諸国を遍歴し 若狭の国に越したりしか こゝに長らく滞留して 八百歳の齢に達し いつとはなしに 八百比丘尼の名をえしか 後時を経て 郷国土佐に立帰り 産土神なる鴨社に大なる石塔を寄進せり 然るに大坊の浦の地震の際 海中に沈みて見えすなりしと云ふ
高岡地方に伝ふる口碑
高岡郡野見 大谷 久通等の諸村の山上に無数の古墓あり 自然の土盛をなすもあれは 小さき自然石を置きて標とす 其中に 神護景雲三年 当国に流されたる氷上志計志麿の墓と伝へらゝるものあり 此等の場所ハ いつれも往古須崎の海上に在りし 賑ひの町の墓山にて 白鳳大震災の時 其の町は海底に陥没せしか わつかに名残として 墓山のみ残りしものなりとそ
偖此の氷上志計志麿か土佐へ配流せられしハ 確かなる史実にして 続日本紀高野天皇紀に記されあり
高岡郡仁井田郷に伝はる古説
高岡郡仁井田郷には 高岡神社あり 社殿五棟作りなればこれをまた 五社明神とも申す 貞和五年 嘉暦三年等の鰐口ありて 当国にては名ある古社なり 而して其祭神ハ 一宮ハ 孝霊天皇 二宮ハ 磯城細媛命 三宮ハ 大山祗命 又吉備彦狭島命 四宮ハ 伊予二名洲小千命 五宮ハ 伊予島天狭貫命を祀る 是皆伊予に関係ある神達なり 此の彦狭島命ハ 孝霊天皇の皇子にして 太古四国未た分れさる時 伊予の二名洲と呼はれし頃に こゝに封せられ玉ひし所なるが 白鳳大地震の時 南部の大地 一時に陥没したるため 其地形変じて 遂に僻地となれるなり
高知附近に伝ふる古説
白鳳震災前の四国古図
白黒震災後の四国図
高知城下の入口なる浦戸港の北方を孕といふ 距離六七町の小海峡を為す これハ白鳳大地震の時 大津浪南方より打寄せ 此の山脈を蹴破りて 小入海となせしか 当時其打かきたる山の一部をば 猶潮勢にて 北に押流し 孕より二十町程北方に坐らしめたり 是を比島といふなり
此白鳳の大震こそ 我邦歴史始まつて以来始めての 激変にして 其災害の甚大なりしことは 想像の外にありといふへし
此の図は白鳳震災後の四国図にして神武紀元一千三百四十五年即ち、天武帝白鳳十三年壬辰十月十四日諸国大震山崩れ島生し川埋もり社寺屋舎仆れ人畜の死傷算なし 此の時土佐国五十余万頃没為海
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
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都道府県 高知
市区町村

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