(注、他出ある部分は省略)
土佐湾の生じたるは即ち此の時にして 異変の跡を左に図示す
此時の地震の区域は我邦の南部大半に及べるものにて 西方に在りては 伊予の温泉の凅るゝことあり 東に在りては 伊豆島の傍に更に小島を噴出して 其震動の範囲は 実に広大なるものあり
此の伊予道後の温泉ハ遠く神代の昔より 其名聞へたる名泉にして 白鳳大震以後 宝永四年十月四日の大震 又安政元年十一月五日の大震にも 共に一時温泉の沽れたることのありし由 古書に見えける
右白鳳の大地震に海中に陥没したる田地五十万頃とあるは 此の頃の字は 書記にしろ(○○)と訓す 和字の代に当るなり 大宝令の制 三百六十歩を一段として 是より五十代即五十束の稲を得るなり 然るに其より以前の古代にては 一段は二百五十歩に相当する故 これか即五十代にして 五歩か一代即ち一頃に当るわけなり
されは 土佐地震に陥没せる田園五十万頃とは 当時の二百五十万坪となり今日にて三百四十四万坪にして 約一千百五十七町に該当す 里数にて示せは 一里四方の土地なり これか一時に海底に没したりといへは いかに非常の天災なりしかを想像するに難からすといふへし
又伊豆大島の傍に突如として 一小島を湧起して 世人を驚かしたる様 実に奇怪と申すべし
偖も 此の大地震の後に 地盤か安定を得るまで 猶引つゞき 余震ありて 数日或は数ヶ月 相当の強震 又は大津浪を感じ起すハ 避くへからさることにして 何分古代のことにして 且つ交通不便の世の中にて一々 文献に記載されずされとも 日本書記中 白鳳十三年十一月の条に曰く
庚戌 土佐国司言 大潮高騰 海水漂蕩 由是運調船多放失焉と
(中略)