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項目 内容
ID H00010523
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1828/12/18
和暦 文政十一年十一月十二日
綱文 1828年越後三条地震(文政十一年十一月十二日)
書名 〔小泉文庫所蔵記録〕○越後小泉其明著
本文
山水の転変 文政十一年霜月十二日辰剋より越国いたく地震ひり、山岳の脱出せしもの長岡領にては六百六十余ケ所、又大面町の上下村松領域にて大いに脱出せるもの十ケ所、皆田畠をくつがへせり、其他僅に崩れおち欠下りなんといへる地は枚挙しがたし、其中に専ら変とすべきものは堀溝川といふ川を塞げるなり、この流れは刈谷田川の枝川にて其源村松領下タ田郷に出づ、小流といへど流るゝ水なり、凡一里余皆山間にて水おほく出づ、故に見附町の郷地一万石余の水田も此水を引いて足れりといへるを、山崩れて流れを塞ぐ所六七ケ所昼夜に湛へる水いと高うなれるが、一斉に押出す時あらば流末河辺の堀溝村の家居皆覆りなんと衆民やすき心なかりしを、翌る春に至り領主の命令にて雪をわりて其ふさがりし地をさらはれしかば、憂ひをのぞき皆よろこびしと云へり、かゝる大変なりしかば弥彦山一丈ばかりもゆりあがれりと云ふもあり、又は三里ほど海中へ突出せるなど妄説をいひはやせど、後に聞けば地震のをりは山いたく鳴りし事は正しく有りし事なり、江河の大小となく地震のときには水感じたりしてと所々の渡守らが現に見しところ、又上り下りの船子共は地震と心つかで水の逆立つを川くたといふ難ならんかと狼狽まはりしと云ふ、暫時のうちなれば舟をそこなふほどの事はなかりとなん、今井新田の猟夫徳松は此時鉄砲提げて川島に出でありしに、川中所々波立ちのぼること或は五六尺又一丈ばかり、岸辺はひきしはの如く数町陸となれるを見しといへり、凡て江河の提欠下り、ゆり窪めて川床高ふ押出し、又池沼の類ひも岸をくぼめ水中へ砂を震出し、平地より高くなれる所もあり、山地の井筋は凡て山崩れて所々ふさがり、平地のは大かた水をゆりあげ雑喉蛙など岸にさまよへり 長岡領鴉ケ島の井は水路凡二里、村松領は貝ケ島井水路凡一里半共に山地にあり、皆埋れて其跡を失へりと云ふ、凡そ平坦にして堅硬の地は破裂し弱土は陥り砂ばかりの地は無事に近きことおほかたの様なり、故に鴉の森村の前後信濃川提外川原幅二三尺より二三間、長二三十間より三四百間、深三四尺或は八九尺所々破裂す、又陥りしところ数ケ所にて井新旧川原地なども又之に同じ、前須田村民戸ある所より城腰といへる畠地へかけ凡そ長二百間ばかりのうち地裂けて砂交りの水を吹出し、新之丞、孫七、孫八などが宅中へ水掃入れり 古老の口碑に伝へ来し須田川あとゝいへるあたりにては細やかなる芥木又松の実など埋れし所多く、荻島新田入野といふ畠地にては長八九尺、周囲四五尺ばかりの黒みたる埋木をゆり出し、曽根新田砂川原にても同じく周囲二尋余、長八九間ばかりの大木をゆり出せり、此等のものは幾許りの年を経しか知るものなし、横場新田忠治左衛門が宅地竹薮の地裂けしところより黒砂交りの水を吹出すこと高五六尺、近隣の家宅へ水押入りて皆逃げしといふ。又曽根新田佐助は#をすりてゐたる折、地震ふりきたるに驚き逃げ出で、宅に入れば寝所の下より砂水を吹出せるが、摺りたての米を押ながし、末宝村門治郎が宅中も同じく許多の砂水を吹出せり、後炉中の砂を取りのけしに二尺許り下より巳が茶釜を掘り出せ■類かぞへ難し 又七日市村某妻井戸のもとに茶がまみがきて居りしがゆりたふされ、起きんとせしに茶釜なし、必定地の裂けたる穴の中へ落ちたるならんと、七八尺ばかりの竿もて其穴中を探れどとゞかず、七八寸許りの小碇に綱付けて穴中をさがせしとぞ、 又荘川村曹洞宗荘川寺の和尚山王村にゆきて留守の時、山ゆり崩れて庫裏を倒す。留守せし僧侶和尚の父伝助ともに庭にかけ出で難をさく、やがて僧等伝助が行方を尋ねるに知れず、然るに庭中五六尺、七八尺ばかり長く裂けたる所四五ケ所、若し誤りて其穴中に落ちしやと竿もてさがせど、悉く堀穿たんには多くの人夫入り、雇ふべき人もあらず、かくする内雪降り積り件の彼の裂口も三四川まで雪に埋まり尋ねる便を失ひき、今に行方知れぬは果して割けたる口に陥りて活ながら葬はれしならんと、脇川新田邑長幸蔵が宅前の井戸は深三間にあまり、奴婢等水を汲みたるあと汲桶の井戸に投じ、索はしを井筒に結びつけおきしが地震ひしとき、彼の汲器を人ありて投げ上げし如く井筒のうへ三四尺も飛び上り、又元へ下ると見しほどに水わき上げ曲輪にあふれ出で、其流れにさそはれ汲桶庭に転び出し、其索のかぎり流れ出でゝ止む。翌朝幸蔵井の辺に行きて見しに、湧出し白砂四辺に満ち、井中をのぞけば水は元のまゝをさまりぬと見ゆれど、石を投げ入れみれば初めより深くなりて水の味ひもまされると、 上呆内村長泉寺の井水は清らかにして味美なりと世人は云へるを、水濁れば必ず変ありと古人傅へ来りしが、此年六月頃濁り、又十月の末濁あるを里人心おちつかぬに、果して大震にあひ、かの寺は本堂、太子堂など破壊し、庫裏は倒れ里の家は同じ様になり、死に失へる人さへありといへり、 妙法寺村と月岡村の間を提灯持ちて往来するもの、其提灯に火つきて焼きにけり、初め四五人がほどは巳が粗末より出せしと思ひ居たりしに、日数経ちても人毎に皆同じ、こは狐狸などのわざにもあるかと後に変化のもの出る由噂高くなりて、夜は往来するものなかりしに心あるもの畏を考へて、此地中の火気の盛んなるが真火を与ふるなるべしと、抑も此如法寺村百姓荘右衛門囲炉裏の隅に石臼をおきて、それに孔を穿ち其穴に土中より吹出る風に真火をかざせば火となり勢ひ強く燃立てかぎりなくもゆること世人普く知るところなるが、地震になり後火をかざせば其烈しき事常より三倍の火勢を発すれば、出火をおそれしか日数をへて又常の如くなりぬといへり、元来此あたりは水田の中水沸々するところ、陸にては土中より風吹出る気味ある所数多ありけり云々、 地動の兆 十一月七八日頃より日々暁方より晨時ばかりに雰の如き気立ちて、其深き時は僅に七八歩先に立てる人さへ見えがたく、又空はれわたりし時は太陽の周囲五彩たなびき虹にひとし、気候も大むねそむけて高山すら雪を見ぬ暖気につれて、万木芽を生じ躑躅、水僊自ら花ひらけ、山葵、款冬花を市に粥ぐ、我人後のうれひを知らねば春にあへる心地して物足り且春のやすきを悦べり、十一日の暁日出るまへ東南の方雲の色朱の如く、巳の時ばかりには雨ふり風あれど、さのみ強からずして止む、十二日八声の鶏の鳴く頃風音あり、全くあけわたりて南西の方雲色すきまもなく黒く泡の色朱の如く輝けり、快晴ならんと思ひしに辰の時ころに至り、西南の方にて雷の如き音あるとおぼえし間もなく大に地震ひ来りて、一瞬の間に幾多の変をなして衆人の憂苦を発せり、抑も昔より変は他国に折々ありし事書にも見え話にも聞きしなれど、自ら此難にあひみては世に地震ほど恐ろしきはなしと始めて感じ思はしむ云々、 地震ふ様 地震のゆり来る様山野にありて見たる人の話によれば、始め西南より風立ちて砂ほこり真黒に煙り立ち来る其の勢ひ、大波の衝くが如くうね立ちて地をゆり立て東方へすぎ行けり、其筋に立てるもの樹木は地を雑ぐにひとしく、行人は皆振り倒され、又地の裂けたる口に転び落つるもあり、此時尾崎村善慶寺の住持は朝とく起き出で飯をも食せず三篠町に至らんとする途にて此難にあひたり、されば起ることも得ず、ゆくりなく倒れながら東方を見れば、彼方なる山々暫時出没せし由を語る、又直太新田権八といふもの、其里近き江溝の中に雑魚すくひてある折から此難に遇ひ江の中にふり倒され、頓にはたちかねて岸にとりつきはひあがらんとせしに、目前なる田畠大波の押しゆく如く撼たて、荘瀬村のかたへすぐ、しばしがほど彼の里現はれかくれつして見えけりと云へり、又入蔵新田邑長源兵衛は蔵内村邑長勘兵衛とともに、此日吉野屋村より帰路鴨ケ池村を過ぎ縄手道にかゝる時、この地動に遇ひて後へころばさるを起きんとすれば又前へ倒さる、其のかわきたる田面をゆすること波涛に似て所々ごみ砂を飛ばすこと煙の如く、またゝく間に一滴の水なき田面を泥水あぜの半をひたせり、翌る日其辺にゆき見るに水はなく、所々に地の破裂せるを見たり、きのふ見し所は何れも皆地を押破りし時のわざなるべしと話せり、また我隣邑某の家の前に建てる門(高一丈三尺、地の間八尺)あり、左右の本柱にならびて扣柱といふもの立てけるが、石にて根継ぎして深さ三尺程土中に埋め置きしを突きあげたれば、左右の塀をはなれ戸さし転ばされ、五七間ばかり隔りて逆にたてり、此等の話によりて地震のすぐる様と震気の強く衝く其の烈しきさまを思ふべし、
出典 ひずみ集中帯プロジェクト【古地震・津波等の史資料データベース】
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都道府県 新潟
市区町村

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