享和二年壬戌十一月十五日、地震甚し、此災に罹る所、総て百六十一村、倒れ臥せる家七百卅二、傾き壊れたる家千四百二十三、焼たる家三百二十八、死する者十九人、其余山崩れ谷埋み、田圃道橋池堤の損へること、挙記すべからず、羽茂郡小木の港、数十町干潟と成り、赤泊、沢崎、又潮退き石出で〓、国々の船共皆便を失ふ、是に因て官より浚をなさしめられ、三年を経て、甲子八月其功終へて、復諸国の船湊ふと雖ども、人力限りあれば、形勢全くは旧に復しがたく、又是に付て、新に田土を得たる地もありけり、
○本史料〔佐渡志〕は文化年間に、佐渡奉行所の田中美清が、友人の西川明雅と共に編纂した地誌である。