○又地震に徴(シルシ)ある事、現在見し所、当六月廿五日、日輪西山に没する、其色血のごとし、同七月四日月没する、其色亦同じ、和漢合運云、寛文二年壬寅三月六日より廿日まで、日朝夕如血、月亦同五月朔日、大地震五条石橋落、朽木谷崩土民死、至ラ七月ニ未止出たり広島氏の譚(ハナシ)に、享和(二カ)三年十一月、諸用ありて、佐渡の国小木(ヲギ)といふ湊に滞留せしに、同十五日の朝なりしが、同宿の船かかりせし船頭とゝもに、日和を見むとて、近辺なる、丘(ヲカ)へ出しに、船頭のいはく、今日(ケフ)の天気ハ誠にあやしげなり、四方濛々(モウ/\)として雲、山の腰にたれ、山半腹より上ハ峰あらはれたり、雨とも見えず、風になるとも覚えず、我年来かくのごとき天気を見ずと、大にあやしむ、此時、広島氏考て曰、是ハ雲のたるゝにあらず、地気の上(昇カ)升するならん、予幼年のとき父に聞ける事有、地気の上升(昇カ)するハ地震の徴(シルシ)なりと、暫時も猶予(ユウヨ)有べからずと、急ぎ旅宿に帰り、主に其由をつげ、此地後ハ山、前ハ海にして甚危(アヤウ)し、又来るとも、暫時外の地ににのがれんと、人をして荷物など先へ送らせ、そこ/\に支度して立出ぬ、道の程四里計も行とおもひしが、山中にて果して大地震せり、地ハ浪のうつことく揺(ユリ)て、大木など枝ミな地を打ふしまろびながら、漸にのがれて去りぬ、比時小木(ヲギ)の湊ハ山崩れ、堂塔ハ倒れ、潮漲(ウシホミナギリ)て舎屋咸(イヘミナ)海に入、大きなる岩海より湧出たり、それより毎日小動して、翌年六月に漸々止たりとなん、其後同国金山にいたりし時、去る地震にハ、定めし穴も潰(ツブ)れ、人も損ぜしにやと訪ひしに、さハなく、皆いふ、此地ハ、むかしより地震ハ巳前にしりぬ、去る地震も、三日以前に其徴(シルシ)を知りて、皆穴に入らず用意せし故、一人も怪我なしとなり、其徴はいかにして知るやと問しに、将に地震せんとする前ハ、穴の中地気上升(昇カ)して、傍(カタハラ)なる人もたがひに腰より上ハ唯濠々として見へず、是を地震の徴とすといへり、按るに、常に地中に入ものハ地気をよくしる、鳥ハ空中にありてよく上升(昇カ)の気をしる、今度地震せんとする時、数千の鷺一度に飛を見る、又、或人六月廿七日の朝ハいまだ日も出ぬ先に虹丑寅の間にたつを見る、虹ハ日にむかひてたつハ常なり、いづれも常にあらざるハ徴とやいはん、
○「地震考」は、土御門家で天文暦学を講じた小島好謙(一七六一~一八三一)の説をまとめ、更に門下の東隴庵が敷衍・補記したものである。絵と序は、京都画壇岸派の岸岱が、跋は三緘主人(貫名海屋)が書いている。本史料は、東隴庵が筆記した箇所にあたり、現地の佐渡小木にいた広島氏に関する話が掲載されている。この史料によると、広島氏は小島好謙の友人で諸国で四度地震に遭った人物であるという。