十月廿六日大地震、在々所々にゆりたほされ、海辺大津波して津々浦々もいたみける、此時我国のみに限らず、下は本荘、秋田にひゞき、北国能登の国迄も津波せしと後に聞き伝へり、予津波の来るは見ずといへども、海村の噺を聞くに、地震に続き波遥かに引いて潮湧きかへるが如く、沖の方より大山の崩るるにひとしく.渚の山の半腹に突き当り、人家止へ越し、川筋逆さに水を流し、平砂も大海の沖となり、潮の水の当つて砕くる恐ろしき譬ふに物なしとぞ、汐越浜の事かとよ磯部を通る旅人あり、津波せしとは知らず、風雨をしのび顔傾けて行けるが、道中に浮上げられ渚の山におし上げられ大に驚き、幸ひ木のあるに手を掛けしかば、波は遥かに引とつて実にや虎口を遁れ危き助かりしと委しく聞けり、
○本史料は、鶴岡城下五日町の町人菅原儀右衛門(一七八四~一八四七)の慈善活動を記したもので、奥書には、天保六年(一八三五)早春に作成されたとある。