(表紙題箋)
「大泉救民録 全」
飢饉の事
(中略)
扠又十月廿六日ニハ大地震有て、家の潰し所も多有之、引続津浪ありて、海辺の浦々家引取れし所も有て、人も死けり、海辺ニ置し猟船波ニ取れしハ幾艘といふ数も知すと聞へし、如斯変災打重し年なれハ、人々の難迫推て知るへし、穀不熟為飢、菜不熟為饉、飢饑字異ニシテ義同し、飢饉するをカシンと云ハ、餓死(カシン)なり、又ケカチと云ハ飢渇(ケカチ)なりと或書ニ見へたり、此年ハ穀不熟、菜も又同し、然ハ飢饉といふへき年ニ当れりと思へり
(中略)
地震の事
天変地天ハ測知難し、昔〓地震度々ありし中ニも、文化元子年の如きハ聞伝へもあらさりけり、古へいつれの頃にや有けん、由利郡矢島の山中ニ大木所々埋居れり、是を神代木といふ、其木の太さ指渡丈余有るも有しとなん、近頃是を掘出し酒田辺へ売ニ来れるを見るニ、杉ノ木ニて幅三四尺の一枚板也、木性色青さひて、朽たる物ニも非す、板戸なとニ用いるニ至而美事也、かやうの大木土中に埋る事、其昔し大地震ありて山突崩れ、或ハ地沈んて地中ニ入しものニもあらんか、同郡汐越の象潟ハ日本無双の景色なりしか、其始地震ニて潟となりたる所也と云伝ふよし、大木の埋ミたるも其頃にや有けんよし、いと古き事なるへし、此子年の大地震ハ即いまた生れさる先の事なれとも、父にてありし人の常々物語れるをきゝしニ、其頃父なる人酒田在勤の折ニて代家ニ居りし時、六月四日の夜、俄ニ家鳴はためて大ニ震ひけれハ、側ニ有し帯と脇指を一趣ニ持からミ、帯する間もなけれハ、浴衣をまとひしまゝニて縁ニ出れハ、〓(トサシ)置し面戸の自然ニ身の出らるゝ程明けれハ、其所〓尻出、庭ニ下りしか、常ニ水もなき庭ニ水湧て水中へ落つ、こはいかにとおもふニ、そここゝ地の割て水の湧出たるなりけり、当地の震ふニ立堪へかたく、其所なる柳ニ取付て、後を見れハ今出し家の潰れてそ有ける、同役の村田伝治なる人、其潰し家ニ居レハ、いかゝあらんと驚て、震ひも少しをさミけれハ、やアいかにと呼立れハ、応と答ふる声あり、命の無恙を先ハ安堵し、潰たる家の屋根を壊ち下なる人を救ひ出し、此時常々長押ニ懸置し馬上提灯いかなる拍子ニや有けん天井板の上ニはね上られて、痛ミもせす有しを求得て、大ニ助となりしとそ、家内のものなとも皆潰されて有れと、命ニハ怪我もなく夫々外〓呼出し、隣家なる文平なとをも訪ひて、文平か家ハ潰れされとも、礎の石〓外辺壱尺計脇へ歩ミしなり、いつれも無事なるを安堵す、然とも近辺の家々残りなく潰て、圧ニ打れ即死せるもあり、又半死半生ニて手足なと押れて啼喚ふも聞へしかと、行て救ふへきやうもなかりしとなん、させる折しも火事出て、焼亡する所も有りき、かゝる折の事ハ誠ニ地獄とや云也、夢か現か此世の事とハ思ハれさりしありさま也しもと語り及ひき、此地震の有し所以ハ、去ル頃〓鳥海山上ニ火出て、四時と不絶立し煙ハ雲の如く、次第/\ニ焼破て、終ニ此子年ニ及んて、国中ニ灰を降し、又雷鳴の如き音なと時々聞へて、此時ニ至て山上震動雷電して、新ニ一ツの山を吹出せる也、頂上の西の方ニ尖りて見ゆる山ハ、此時新ニ出たる山也、かやうの山を吹出せる程鳴動せしものなれハ、地の震ふも断ニすあれされハにや、鳥海ニ近き川北の村々分て遊佐、荒瀬ハ地震強かりけりときこへし、人馬の死たる事数多なり、年代記等へも荘内大地震山崩て人馬死と出せり、惜哉此時汐越の象潟皆陸地となりて、無双の風景一時ニ空しくなりにけり、今ハ其潟有し場所ハ田畑となりしよし、天地の間ニ変する事如斯、又天保四巳年の如きもいか成凶年ニ当りたるや、水変、大凶作打重りし上、十月廿六日昼九ツ半頃ニも有へし大地震有て、家潰るゝ所有り、酒田を中ニして其辺二、三里か間、別而強く聞へ、潰れたる家多し、荒瀬ニてハ 吉田新田、鶴岡、上野曽根、南吉岡、下安田辺まて、平田ニてハ 鵜渡川原、大町、大田、古荒、牧曽根、漆曽根辺まて、御料 大宮、中川 広野辺、京田 宮野浦、坂野辺、黒森、成田辺迄、右の内ニも酒田は別而強かりけりときこへし、潰或ハ傾り住居成かたき家多くミへけり、酒田の内ニても下通ハさ迄なし、上通大痛也、荒瀬町、浜の町辺三、四尺位地高く成し所も有り、又低成し所もあり、荒瀬町弥忠兵衛といふものゝ家前の方、地形三尺余り高く、後の方四尺はかりも低く成しを見たり、又御料大宮地方往来の辺地割たる所、所々ニ有、広き所ハ幅四、五尺位、長五、六十間も有へく見へたり、又其辺畑中ニ其辺赤黒青の泥を吹出せし所も見へけり、其節其辺ニて地震ニ逢しものゝ噺をきゝしニ、右泥水を吹出せし時、四、五間も天井へ吹上ケたりしよし、其後其辺へ行て見るニ、さもあらんとみへたり、地の接合ニて割て開たる所もあれハ、又詰りて〆られたる所もあるへし、其〆られたる所ニてハ、水を吹出せしものとおもハる、かやうの事ハ有へしとも思ハれたりしか、正ニ見たる事なれハ、中々恐敷ものニとそあれ、地震ハ地の震ふのミニ非す、天地ともニ動くものとみえたり、雲井を飛鳥も地ニ落、海上を渡る舟も風なきニ浪高低をなすとかや
津浪の事
津浪といふハ大洋の大浪也、大地震の後ハ必来るものといひ伝へり、されハにや、文化元子年地震の後、津浪や来たらんとて、浜辺の村々ハいふニ及ハす、其近き辺の人々迄、皆鍋釜を背負ふて家を捨、山ニ登り、或ハ高き岡ニ逃たり、然共津浪ハなくて済しとなん、此度天保四巳年ハ、地震の後間もなく津浪来りて、海辺の村里家を引取れ、人も死けり、浜辺ニ置し猟船なと流れ痛しハ数も知れすときこえし、其頃聞へしハ、山浜通小波渡の茶屋家も人も浪ニ引取れて、姿形もなくなりしよし、京田通加茂海の澗ニ有し大船揉合て、破船せしもあり、又つなきし綱切て、村の中へ押流され、或ハ家をも構ハす、のろ/\と押通し入もありて、引浪の節ハ猶水勢強き事なりとそ、其頃同組外渡辺惣助といふ人、澗役勤番の折ニて、其役家なとも既ニ危かりしよし、夫津浪よといふニ逃る間もなく、家の内ニ汐込ミ入しかハ、流押ヘ取付、梁ニ登り、漸々ニして命助りしとそ、引汐の時、戸障子ハ勿論、壁など迄引れけれハ、家財ハ不残浪ニ取れけるよし、変ニ至りてハ難測知事のあるもの也、其時其隣家なるものも家財を流し、店の板の間ニ米壱表置しか、其米汐引候後見候へハ、前の庇の上ニ有しよし、いか成拍子ニ行なりたるらん、考も何もなきもの也と物語れるをきゝし、又酒田ニてハ船場丁辺ニ繋き置し海船押流されて、新井田橋迄来りしとそ、此時酒田台町之者 名忘れたり 下筋へ用事有之罷越候途中、女廉三崎〓小砂川の間ニて津浪ニ逢けり、沖の方ニ山の如きもの出たり、雲かと見れハ雲ニ非す、山かとミれハ山ニ非す、彼是と見て居たりし内ニ間近く来りて、逃る間もなけれハ、小高き所ニ上りしニ、早浪打上ケて、浪の上ニ身ハ浮たり、引波ニ遥の沖へ引れけり、又二の浪打寄ける時、不思議ニも命の強かりけん、山際迄打上ケられたる時、何やら手ニ障りたるものあり、是を握りてミれハ柴のやうなるものなり、波の引ける時、是を放さす取付て居たる処、余程高き山の薮の中ニ身ハ止りて、命を全く拾ひけるとそ、惣而海辺ニ住ものは津浪の心得有へき事ニとそ
○「大泉救民録」の目次には「一、飢饉の事、一、米直段高下の事、一、洪水の事、一、地震の事、一、津浪の事」と記されている。本史料では「一、地震の事」「一、津浪の事」の項は全文を掲載し、他の項目については地震と津波にかかわる部分のみを掲載した。