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項目 内容
ID H00010080
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1751/05/21
和暦 寛延四年四月二十六日
綱文 1751年越後高田地震(寛延四年四月二十六日)
書名 (一) 能生谷村大沢滝川善兵衛氏記録(原文)
本文
(西頚城郡誌所載の善兵衛氏記録は此の原文を中川直賢氏が改作したものらしいのである)
○震動の危変
日行月亦来って其年も既に暮れ明れは寛延四辛未年に至り諸人も去年の潤にて卯年以来艱難辛苦忘れ果て角て正月は新年之御慶も始り歌や笑ひの絶し世も一時に賑ふ世と換し峰も下りて淵となり淵も上りて峰となり明日は泣世と換るとも知らぬもの(こそカ)□□哀れなり。早正月も末方の廿五日の夕方より雪降出て同二十九日の明方に小粕の如き赤色なる雪降り来り依之亦も危変の来るかと皆人顔を見合へけり。実に光陰砲玉の如くにして四月二十五日に至り同日夜八ツ時俄に大地震動して山々一時に崩れ人家を潰し人馬鳥獣の即死夥敷能生谷西の方は平村より槙村迄に東は鷲尾村より高倉村迄、此村々は別して山崩にかゝり家屋を潰し人馬の怪我夥敷、平村にては皆潰一軒、半潰十二軒、槙村にては皆潰五軒半潰数多、同村治郎左衛門即死す。此外谷中村々半潰怪我人等無之村は更になし。此地震毎日昼夜数度動き諸人困却少なからず依って谷中村々相談整ひ藤後村荘屋太郎左衛門を以て伊勢大神宮へ祈念の代参を立て則祈念するに、御師より一万度の御祓御附与相成候。代参も無恙く帰国致され尚亦谷中相談の上御祓は槙村金山権現へ奉納す。亦十二月に至り伊勢御師より五千度の御祓能生谷村々へ壱封づつ御下与相成候。依って村々より御初穂として銭五百文つつ献納す
一名立谷は小田島村より平谷村迄て渡辺高山一面に抜崩東蒲生田村の下岸迄て突付しにより川水湛へて一時に海をなし併て小田島村人家残らず潰れて男女即死三十八人怪我人のなき家更になし。殊に寺二ケ寺抜底に消滅す。亦東蒲生田村々内字足崩是も後なる高峰崩れて人家皆潰即死怪我人数多し。池田村も後なる山嶺切れ落、漸く家数五軒残り外悉く土中に消亡す。此外村々震動のため皆潰半潰れ或は人馬の即死怪我人数得るに遑なし。亦浜名立小泊村壱在所皆潰れ、殊に当村たるや北越に名を上げたる鳥ケ首に連続したる高峰村落の後南をたち北は海原に臨みて只々往来を跨り而已山〓は一面岩石を重たる如く懸る高峰一時に崩れて海中へ突出し無慙なるかな壱村の男女老若鳥獣も数丈々の岩石の下に悉く消滅する事不便なり。
一仙納徳合の両村も人家大体半潰にて怪我人多し。
一桑取谷の村々は別して危災にて東吉尾村是も渡辺なる高峰崩れて人家二十軒在居の所漸く一軒残り外十九軒は山崩れの底になり人馬皆滅す。西吉尾村にても東吉尾の抜崩を突上けたる為に皆潰或は半潰にて人数廿九人即死、此外堅(怪)我人夥敷漸く斎京三太左衛門而已無難なり。此外下横山小池の両村も人家過半潰れて人馬死亡怪我人数多なり。有間川村にては追立山崩れて一村皆潰即死四十八人怪我人夥敷、此外桑取谷の村々皆潰半潰怪我人等数多にて惣して無難の村更になかりけると。
一高田町は当時□家二千九百四十一軒の内二千八十二軒皆潰、四百十四軒半潰、四百四十五軒破損即死二百九十二人怪我人数知れず。
一今町は漸く町家二十軒破損外不残潰れて即死怪我人知れす凡て頚城壱郡の中には無難の村落更になし。
角て此地震にて家屋の損害は勿論田畑耕地の荒害莫大の事にて唯其率を記す而巳にて去卯の水害よりは百倍したる危変なりと。茲に御領主榊原式部大輔殿御領中の人民災害に罹り生活を失ひ目下の困難見るに忍ひすとの御意にて亦々御救助の御救助、剰へ御拝借返納方も未だ莫大の不納なる所斯る天災、是偏に国の不幸なりと更に御不興の体も無之と茲に武将源頼朝公より四十代にして徳川九代の孫将軍松平家重公の御治世なる所に頚城郡の天災によりて御領主より金一万三千両御拝借御願立に相成り候所則頚城の天災は稀成事に付御願の通り御下渡相成候。依て御拝借金の内二千両也御領分六万石の内災害に罹りし者へ御貸付け相成り同手前の高田市中へ同断同一万両也御城并に御家中へ御貸下け被遊候。能生谷二十四ケ村の他皆潰一軒に付金一分と銀六匁二分五厘つゝ、半潰一軒に付下銀七目三分づゝ右割合の外金三十両能生谷中へ御貸下け相成右合せて来申年より巳年迄十ケ年賦返納被仰付候。
一寛延四年十二月(十一月廿七日)年号御改則宝暦元年と御改称有り
一宝暦二壬申年、本年も早春より尚地震度々動ると雖も僅少の事にて諸作は十分に満熟也。従て米価も下直きし諸品も直を下直きすれは諸人五ケ年の艱苦を離れて再ひ安堵の思をなしけり。 〇寛延四未年
出典 ひずみ集中帯プロジェクト【古地震・津波等の史資料データベース】
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