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項目 内容
ID H00010037
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1751/05/21
和暦 寛延四年四月二十六日
綱文 1751年越後高田地震(寛延四年四月二十六日)
書名 (至享文記)
本文
(寛延)
一同四年未四月廿五日夜、信濃・越後之境なる妙義山といふ山有。比山両方へ破れ土砂吹出ス事夥敷。此処ハ榊原小平太様御領分拾五万石、家数六千軒計有之、地内弐千軒程焼失致候。御城大破及ひ、家中半分ゆり崩ス。百姓・町人三百余人死ス。十一日之間地震止ス。然ルに今町といふ所ハ、津波にて町半分ハ波に引るゝ。残る半分ハ土砂ニ埋る。海中三里之余、沖迄潟と成。人数弐百余人、牛馬百拾三疋死ス。去ル午之年紅の雪降る。是仏神之告とも申あへり。夫より一里下にてかしちの宿あり、此処ハ大仏あり。高サ廿五間、本堂大地半分埋る。是より山道十二里行と京井川、此間ニ四海峠と云、山海中へ三里程突出ス。今町〓三里下ニて鉢崎と云所有、此処を亀割坂と云。昔源義経の御台御名ハ桂之前と申。此処ハ関所なり、鉢崎山破、海中へ突出ス。此処より白蛇顕れて上天する。震動雷電ス。是〓柏崎、此町千軒余津波にて人多く死ス。此亀割にて桂の前御紐とき給ひし産湯之水有。是より出雲崎へ六里塩浜なり。此塩浜之人家とも見へず、比処〓佐渡ケ島見へる。海上十八里、是より三里下寺泊りといふ宿有、千軒余ケ処家皆土砂ニ埋るゝ。人馬とも山へ逃込、山ニ住居して居るよし。是より八里程行と越後新潟也。此処かうち法印之古跡有。諸国入込し大湊也。此処大船・小船五拾三艘行方不知、唐人之商船吹寄、凡死ス。廿万人之余と申事、誠ニ筆紙ニ難尽候。
右之通、越後〓申来候を写。 一寛延四年未五月、和泉の国之けい山、四丁ニ弐丁之山大ニしつむ。立木とも□□に見ゆる也。
出典 ひずみ集中帯プロジェクト【古地震・津波等の史資料データベース】
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